夕暮れと電線と

夏至の前後のこの時期、
定時で帰ってくると荻窪に着くのは19時。
日がまだ出てて、夕暮れに差し掛かる。
暑くもなく風が心地よく、
梅雨の合間の晴れた日は一年で最もよい時期だと思う。


夕暮れの茜色の空に染まった雲を眺めながら帰り道を歩く。
東京の住宅街の道は狭いので視界の隅に電線が伸びている。
一見邪魔なようでいてそれもなかなか悪くない。
夕暮れに電線はよく似合う。
黒っぽい、力なくたるんだ線が情感を帯びる。
夕暮れに言葉はなく、電線もまた無言を貫く。
あてもなく広がってるのがいいのだろう。


夕暮れのまだ明るい空に街灯が白く弱々しく灯る。
ああ、この灯りは目の前の電線が電気を運んでいるのか。
そんなことをなんとなく思う。
真夜中には思い至ることもない。
ひとりポツンと立つ街灯の方が気高く、凛として強そうで。


電線を地下に埋めるという工事があちこちで進められている。
不慮の感電事故もなくなるだろうし、景観もよくなる。
しかし、僕のような人間にとってはどこか物悲しいことでもある。
昭和の匂いのする景色がまたひとつ消えるようで。
理屈では分かっているのに
ゆきすぎた「クリーン」のように感じることが時々ある。
そんなの僕だけかな。


宮沢賢治萩原朔太郎は電線に潜むものからイメージを広げた。
そういうものがなくなるということでもある。
今ではありえないことだけど、スパークを青猫と捉えるという。