先月帰省した際に実家の荷物を整理していたら
仏壇の下の押し入れから古びたアルバムが出てきた。
父の死亡記事のスクラップと、葬儀を写した写真と。
その日のことが分かってきた。
その頃僕ら一家はむつ通信部を兼ねる社宅に住んでいた。
木造平屋建ての大きな古い家だった。
当時小学校1年生の僕にとって、なので実際にはかなり小さかっただろう。
数年前に妹の運転する車で訪れたときには駐車場になっていた。
| 岡村記者は五十六年5月、同通信部に赴任。「むつ」母港問
|題、下北郡東通村の原発建設計画、同郡脇野沢村の“北限のサ
|ル”など多くの懸案を抱える本州北端の下北半島一市七町村を
|カバーしていた。
| 特に、昭和四十九年の放射線漏れ事故以来、漂流を続けてい
|る「むつ」の取材は今年に入って大きなヤマ場を迎え、連日取
|材を重ねていた。事故当日、午前中は同郡大畑町臨時議会を取
|材、昼すぎ支局に原稿を吹き込んだあと、「むつ」母港の大湊
|港を訪れた同県委嘱の専門家グループの模様を取材。一行が新
|母校候補地の関根浜に向かったため、車を運転して現地に行く
|ところだった。
社葬となった。葬儀は新聞社の主筆の方が葬儀委員長を務め、
当時の青森県知事、むつ市長、海上自衛隊大湊地方総監など要人が多数参列したとあった。
何も知らなかった。
大勢の大人の人がいるなあ、知らない人がいるなあぐらいにしか思っていなかった。
弔電紹介のあと焼香に入り、母に手を引かれた僕と妹の
「無邪気な姿が会場の涙を誘った」とあった。
写真を見ると僕はあちこちキョロキョロしていた。
妹が祖母に抱っこされ、僕は座布団に寝そべっていた。
妹がちゃんと焼香しようとしている側で僕は後ろを振り向いている。
死因は脳挫傷だった。
| 現場は幅員が狭くゆるいカーブで、むつ署の調べによると岡
|村さんは左カーブを曲がりきれず、右側にはみ出し、対向して
|きた☓☓さんの乗用車と正面衝突した。
相手の方の名前が記載されていた。軽傷で済んだようだ。
あの日の夜、病院で顔を合わせた家族の皆さんが
こちらに対してとてもすまなそうにしていたのを思い出す。
夜も遅くて廊下は薄暗くなっていた。
この日の夜のことを彼らは思い出すことがあるだろうか。
思い出すとしたら、どんなふうにだろうか。
記者仲間の方たちが思いを寄せた短い記事がいくつか、挟まっていた。
テニスのこと、カラオケのこと。
突然の出来事で、38歳という若さで、やりきれない気持ちで書かれていた。
あれから30年以上となる。
父のことを覚えている人もかなりの年配となる。
次に何かをするならば、そういう人たちに会いに行くことか。