柴崎友香さんの話を聞きに行く

先週10日(水)は編集学校のイベントで豪徳寺へ。
「ISISフェスタ」と称して2週間、様々に公開講座が開催された。
学校ゆかりの著名人としてお招きしたのは今回、安田登、大澤真幸柴崎友香の三氏。
そのうち柴崎友香さんのを聞きに行った。


大阪から東京に移ってきて世田谷区内で4回引っ越しをしたという話からスタートした。
アラーキーが妻のヨーコさんを写した写真集が好きで、
ヨーコさんが亡くなってからはアラーキーはベランダを撮り続けた、
それがどんどん荒れ果てていったのが心に焼きついた。
その家が豪徳寺/赤堤にあると聞いて散歩がてら探すのだけどどうにも見つからない。
あるときそれは一軒家ではななくてマンションだったと聞いた。
しかし既にそのマンションは取り壊されたばかりだった。
一軒家だとばかり思い込んでいた。だから見つからなかった。
このエピソードが芥川賞受賞作『春の庭』を書き始めるきっかけになったという。


前半は柴崎友香さんがひとりで、後半は松岡校長と対談で、という形式で進んだ。
19時に始まって途中休憩を挟んで21時半までというプログラムだった。


前半で興味深かったのはこういう話。
なぜ複数の語り手の視点が混在する作品を書くかというと
そもそも現代に生きる我々は
この世界を絶対的な唯一の視点から見ることができないから。
身の回りの出来事から本やテレビやインターネットの向こう側の物事まで
それぞれが異なる立場から異なる意見を述べている。
それらのモザイク的視界からこの世界というものが浮かび上がってくる。
それはひとりの人間の中にも何人もの他者が内在しているということでもある。


パッチワーク的な物の見方というのがこの人の特徴なのだなと思う。
町というものもまた複数の時代/歴史の痕跡が隣り合っているという話になるほどと。
単一の「町」はそのように受け取りたいと考える人のイメージの中にしか存在しない。


話題は町から家へ。
小さい頃団地に育って、同じ見取り図なのに中は全然違うということに心惹かれた。
あるいはその逆の話。
引っ越しをするのが好き、というよりその前に内覧をするのが好きであちこち見て回る。
そんなとき「普通の家」なんてものは実はどこにも存在せず、
部屋数が多い家を観ていると備え付けの変なシャンデリアとか
「これがなければなあ」というものばかり出会う。
そこに人間の欲望がはみだしているのを垣間見る。
「これがあればなあ」と思うようなことは全くない。


休憩の前にワークショップというかエクササイズ。
趣味は写真を撮ることで、最近はパノラマ写真に凝っている。
右から左までレンズを動かしている間に3秒から4秒が経過している。
時間がズレたまま一枚の横長の写真に収まっているという状況が不思議で面白い。
渋谷駅宮益坂口の横断歩道を長々と写した写真と
横尾忠則のように本郷のY字路を写した写真と。
後者は左側の道に額を寄せあっているサラリーマン2人が、
右側の道に自転車に乗ったおっさんが写っている。
この写真を見て物語の発端を考えてみる。
休憩の後に自由に発表する。一人目の人が
「右の自転車に載ってる人は実は痴呆症で、左側の道の人と家族で…」などと語ると
ただフンフンと聞いて面白いですねで終わらせるのではなく、
柴崎友香さんはそれを受けてこういう展開もできそうですよねと物語的可能性を広げる。
当意即妙のやりとり。さすがだなあと思った。


後半は小説の書き方について。
ひとつは、キャラクター。
職業は細かく設定すると。でも求人案内的な事項を取材してもあんまり広がらない。
あれこれ試行錯誤した結果「職場に行ったらまず何をしますか?」と聞くようになった。
そして一日の出来事へと順を追う。
世の中にはいろんな人がいて「おせんべいを食べます」という人もいる。
ああ、その職場は朝からおせんべいを食べても大丈夫なんだなー、と分かる。
なんとなく全体的な雰囲気が伝わってくる。
しかし登場人物を細かく設定したところで自分でもその人のことはよく知らなくて、
書いているうちに自分の想定を超えたことを話したり、行ったりする瞬間があって
そこでようやく見えてくる。


もうひとつは、デビュー作『きょうのできごと』を書く上で気にかけたこと。
1)普段話すときの言葉で書く。大阪弁をリアルに。
  テレビの方言指導のような架空の言葉ではなく。
  大阪の20歳の女の子の語彙が貧しいならばそれをそのまま書く。
2)全体としては素っ気無い感じで。
  世界とはそっけないもの。
  自分の感情や事情とは無関係にこの世界は過ぎゆく。
3)事件は起きなくてもいい。何もなくていい。
  大人になったらドラマチックな物事が起きると想像していたけど、
  全然そうじゃなかった。その気持に抵抗したい。


これらが集まって、何も起こっていないけれども何かが起こりそうな妙な雰囲気を生む。
隙間というかズレというか。そこから物語が生まれる。
読む者をギクッとさせて、読み終えたときに全体として香りを残す。


皆が「そうだったんですか」「意外ですね」という反応を見せたのが
文章修行をしようとして筆写したのが夏目漱石の「草枕」だったということ。
目で読むよりも時間がかかるのでその分、見えてくるものがある。
こんなときにこんな言葉を使うのか、こんなふうに視線を移動させるのかと。


本編が終わって、柴崎友香さんと松岡校長を囲む会。
せっかくなので残っていく。
最初のうちは他の人の質問するのを黙って聞いていた。
後半、あ、僕がしてもいいんだということに気づいて質問をする。
でも気の利いたことは思いつかない。
「さっきP・K・ディックを読んでると言ってましたが、どの作品が好きですか?」
などと、なんかちょっとしょぼい。
(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『流れよ我が涙、と警官は言った』『ユービック』)


そのうちに映画の話になって
「『きょうのできごと』の撮影ではなにかリクエストしましたか? 
 妻夫木くんを出してほしいとか」
なんて質問も。失笑を買う。
リクエストしたことはふたつ。
1)誰が出てほしいということはなかったけど、
  誰が出るのであれリアルな大阪の言葉を話してほしい。
2)撮影を見学に行きたい。
(それが『きょうのできごとの、つづきのできごと』となる)


高校時代映画部だったそうで、当時のことなのでもちろん8mm。
そこからしばらく8mmヨモヤマ話。
現像が最後はハワイでしかできなくなっちゃいましたよねーとか。


終わったのは23時半。
そういえば本編が終わってから即席のサイン会が開催された。
僕も『寝ても覚めても』を持って行ってサインしてもらえばよかった。
しまったー、と思った。
『春の庭』も読まなきゃ…