虹を見たかい?

「にじはね、そらにね、はしがかかってるの! 
 わたしね、あるいてみたい!」


小さい頃、そんなことを言っていた女の子がいた。
幼稚園だったのか。家の近所だったのか。
今となっては名前も顔も思い出せない。
肩までの黒い髪をお下げにしていたことだけを覚えている。
いつどこでそんなことを言ったのか、そもそもその子が言ったのか。
作られた記憶ではないか、…その子の存在自体が。
僕は転校を繰り返したから、手掛かりは失われてしまった。


朝、通勤電車を乗り換えるためにホームに立って待っていると
時々その子のことを思い出すことがある。
今、どこでどうしているのか。
実はこの同じホームに立っていたりしないか。
虹のことなんて忘れていて、俯いて、地味な青いコートを着て。
だけどまだ黒い髪のままだ。
もちろん僕のことも覚えていない。
僕だけが知っていて、またその子と出会い直す。
休みの日、東京のどこかに出かけるようになる。


そんなの起きるわけがないこと、
そういう期待が今更何も生み出さないことを、
30代も半ばを過ぎた僕はよくわかっている。
今日もまたいつもの同じ時間の同じホームに立って、
急行の地下鉄が入ってくるのを待つ。
混んでいて座れることはない。
押されながら吊革を掴むのがやっとだ。


虹がどんなものだったかも思い出せなくなっている。
鮮明な七色に分かれたものなのか。
もっとぼんやりしたものなのか。
少なくとも色の順番がどうなっているのか、
そもそも七つの色が何だったのか。
赤、青、黄色、緑、白、他は…?


今日はまだ空いてるほうだ。
目の前に僕と同い年ぐらいのきれいな女性が立っている。
肩までの黒い髪。
周りの何事にも興味がないかのようにひとり立っている。
地味な青いコートを着て。外界を拒絶するかのように。
僕はそれとなくちらっと見る。見直す。
吊革に掴まっている。目元が見えない。
その目に何が見えているのか、わからない。


「虹って、どんな七色でしたっけ?」


何も映らない、真っ黒な壁が続く。
ただそれだけが果てしなく通り過ぎていく。
目を閉じると永遠のような時間。
片隅に三つか四つの色の断片がうごめく。


揺られていたのが、ブレーキがかかってスピードが落ちる。
駅に着く。目を開けると彼女はいなくなっている。
僕も遅れて人混みの中をホームへと急ぐ。
改札を出て階段を上っていく。
地上に出る。僕は空を見上げる。


空には橋が架かっている。
僕はそれを渡りたいと思う。