坂道

駅を出て坂道を上り、近くの中学校と小学校の側を通って十五分かけて帰ってくる。
鞄から鍵を取り出して開ける。靴を脱いで真っ暗な中に入っていく。
無言のまま廊下からダイニングキッチンへ。明かりをつける。
テーブルの上は朝、妻が広げた新聞とマグカップがそのままになっている。
上着を椅子の背に掛けて片付ける。


二階へ。本棚の前でスーツを着替える。妻の分はまだ本が詰められていない。
積み上げられた段ボールがもうずっとそのままになっている。
まっさらな棚はスベスベしていて、そっと触れてみる。
先日組み上げていたとき、何度か手を滑らせてフローリングの床に落とした。
ガレージで段ボールを片付けていた妻はすぐ階段を上がってきて、
「ものすごく大きな音がする。隣に響くかも。気をつけて」


妻は今晩、友だちと結婚のお祝い会だった。
元々は僕も出席のはずが仕事が終わらず、持ち帰ってきて続きをやることにした。
妻はこの日のことを前から楽しみにしていた。
その妻に頼んで、前日キャンセルを入れてもらっていた。
晩飯は先週の残りのカレーを食べることにしていて、冷凍庫から取り出して解凍した。
米を研ぎ、炊飯器にセットして炊きあがるのを待った。
その間、ダイニングテーブルにノートPCを立ち上げて仕事を少し片付けた。
LINE に「今移動中」というメッセージとともにスタンプが届いた。
僕もなにか返すべきだったけど、いちいち何かあるたびにやりとりするのも
めんどくさかったら手近のスタンプをひとつ押すだけにした。
その後いくつか届いたけど、僕は返さずに仕事を続けた。


ご飯が炊けた。深皿に移そうとして食器棚を開ける。
腰よりも低くて、かがんで覗き込む。
妻がどういう皿を持ってきたのかまだよくわかっていない。
ふと見るとラーメンでもカレーでもよさそうな手頃な大きさのがあった。2枚ペアで。
その上にいくつか小さいのが積み重なっている。
横着と思いつつ、それらをどかさずにそーっと引っ張り出したら、
どこかで手が滑って、あ、と思ったときには床の上でバリンと割れていた。


あっ。


妻は今、楽しく飲んでいることだろう。連絡するのはやめた。
割れた破片を燃えないゴミの袋に移して、掃除機をかけた。
その後でもう一枚残った皿を今度は注意深く取り出して、
ご飯をよそい、電子レンジで温めたカレーをかけたもそもそと食べた。
冷凍されていたからジャガイモがシャクシャクしていた。
妻の気に入っていた皿だった。
結婚する前、この皿で何度も手料理を振舞ってもらっていた。
クリームソースのパスタだとか、牛丼だとか。
その一つ一つを思い出す。
「おいしいね」
「おいしくできたね!」
ウフフ…


食べ終えて食器を洗い、片付ける。
その後仕事を淡々とこなして、資料をひとつ完成させる。
帰ってきたら寒いだろうとエアコンをつける。
22時を過ぎてお風呂を沸かす。
入っているうちに眠ってしまった。


薄めの焼酎お湯割りを飲みながらぼんやりと数日前の新聞を読む。
午前0時近く。まだ店で過ごしているのか。
干渉されず、自分ひとりの時間を過ごせるのはそれはそれでありがたい。
日付をまたいだら LINE でメッセージを送ろう。
眠ってしまってもよかった。まだ水曜。明日も仕事だ。
先に布団に入ってしまってもいいだろう。
そうしなかったのは、皿を割ってしまったという後ろめたさがあったからだった。
明日の朝伝えるよりは今日のうちに謝ったほうがいい。


焼酎のお湯割りがなくなってもう一杯飲むかとお湯を沸かそうとしたら
iPhone の画面が光って、妻から LINE のメッセージが届いた。
「ごめんね。今から帰る。遅くなっちゃった。急行」
お祝いの席で、旦那はどうしたという話になったのだという。
せっかく名前入りのケーキも用意してもらったというのに。
それはそうと何人かからプレゼントをもらった。花束とガラスの器のセットと。
両腕がふさがっている
それを聞いて、迎えに行こうと思った。
「いいよ。先に寝ていいよ」
「いや、今から行く。着替えた」


背中を丸めてしばらく歩く。
深夜の住宅街はひと気もなく、しんと静まり返っている。
小学校も中学校も大きな校舎が真っ暗になってひっそりとしていた。
坂道に差し掛かって下りていく。
少し離れた向こうをやけに明るい電車が追い越して通り過ぎる。
あの中に乗っているのか。
住宅街は大きな新しい家ばかりだった。
僕が、僕らが、こういう家に移り住むことはあるのだろうか。
先月越してきたばかりの借家を出て、2年後はどこでどうしているだろう。


坂を下りた頃、ちょうど交差点の反対側に立っていた妻の姿を見つける。
「おかえり」
「ただいま」
僕は花束とガラスの器のセットを受け取って、両手に抱える。
今来たばかりの坂道を引き返して上りはじめる。
「来てくれて、うれしい」
「ごめんね」
僕は皿を割ったことを謝った。


「どうして割れたんだと思う?」
「どうしてだろ?」
「たぶんね、ちゃんとつかんでなかったからだよ」
「そう?」
「うん。この前の、本棚の棚を何回も落としたのも、そう。
 自分はつかんでるつもりでいて、力が入ってない」
「握力が弱いからだな」
「そういうことじゃない。
 しっかりとつかまえないと。つかんでおかないと。
 ダイちゃんはつかんでるつもりでいても、
 いつかまた別なものを落として割ってしまう」


僕は立ち止まる。
「どうしたの?」
「なんでもない」


また歩き始めた。
左手はガラスの器をしっかりと抱きかかえて。
右手は妻の手をギュッと握って。
坂道はもうあと少し。
「帰ったら、紅茶を入れるよ」