表現の自由というもの

女性器をかたどったアート作品が猥褻物に当たるとして
製作したアーティストが再度逮捕され、
それが不当逮捕だとしてネットで一部盛り上がっている件について。
http://www.j-cast.com/2014/12/05222581.html


こういう場合、「表現の自由」が主張される。
確かにそれは尊重されるべきだし、
基本的に僕はこのアーティストに限らず誰であれその自由はあるのだと思う。


しかし、なんか釈然としない。
モヤモヤとしているのがいったい何なのか考えているうちに、ようやく気づいた。
そのアーティストの作品が欲しいかというと全くそれはない。
ただでもらったところで家に飾りたいとも思わない。
つまり僕はその作品に何の価値も感じていないのだということ。
それははっきり、別物だ。


もちろんそれは女性器をけがらわしいものと感じているということではなく、
扇情的なものを安易に持ち込んでいるだけで面白くもなんともない、
そんなのやろうと思えば誰だってできる、
発想はしても「常識」がそれを押しとどめていたのをこの人はあえてやった
というだけのことで、そこに芸術的価値は個人的に何も感じない、ということ。
だから「表現の自由」を支持する投票があれば一票入れるけど
このアーティストに対しては特に支持しない。


このところ「表現の自由」が主張されるとき、
その作品に対して面白そう、見てみたい触れてみたいと思ったことが全くない。
それが問題とならないような、
猥褻なのか芸術なのかという狭い論点でどうこうすることのないような、
優れた芸術作品に出会いたい。
一部の人ないしは集団の気分を害する、利益を損なう作品と評される時点で
そこには普遍的な価値はないのだ。
害する、損なうのボーダーラインの周りで一喜一憂する人だけが関わればいい。
そんなめんどくさいことに関係のない人は、わざわざそこに近づく必要はない。


表現の自由」が主張される場合、その多くは駄々をこねているだけのように感じられる。