同時通訳というもの

先日聞いた話。
とある同時通訳者の集まりに顔を出したら
とにかく皆よくしゃべるしゃべる。
エネルギッシュな人たちばかり。
なんでこんなにしゃべるのかと言ったら普段、
自分が話したいわけでもないことを代理で話しているからだという。
なるほど、と思う。


「なんで通訳が高いお金をとってるのか知ってる?」
「技術料ですか?」
「この口を通して、言いたくもないこと言わされてるからよ!」


同時通訳の場に、通訳者の「私」は要らない。
芝居の黒子と一緒で、視界には入ってもそこにいないものとして扱われる。
それを徹底しないといけない。
そのプロフェッショナルであるほど、コストがかかる。


ここ数日身の回りで
ロシア語の通訳者にして(エリツィンに口説かれたという)
エッセイスト、小説家の米原万里いいよね、あの人すごいよねと
話題になることが何回かあった。
『オリガ・モリソヴナの反語法』は
歴史と物語とは同一のものなのだ、ということがよく分かる
日本文学の最高傑作のひとつ。
僕はこれまで、何度かこの本をプレゼントしてきた。


この時話したこととして、
翻訳は文字にしていく作業なので後戻りがいくらでもできるが、
通訳は声なのでやり直しができないということ、
あの時あのように訳したけどもっといい言い回しがあったという後悔は
しょっちゅうだ、ということ。
両者似ているようで全然違う。
同時通訳はむしろ、反射神経が問われるスポーツに近い。