川崎中1殺害事件

最近気になる事件はやはり「川崎中1殺害」であって、
だいぶ離れているとはいえ今住んでいるところから川一本隔てた向こう側が川崎。
多摩川河川敷」という言葉にゾワゾワ来るリアリティを感じる。
河原で死体が見つかる。
岡崎京子リバーズ・エッジ』のような文学性はそこにはない。


未成年が未成年を殺す、集団で殺す、残忍な手口で殺す
という事件はこれまでいくらでもあった。
それが今回他と一線を画すような気がしたのは、
ひとつの時代が変わったような気がしたのは、どこかで見かけた
この残酷さはイスラム国の影響によるものか、というものであって
国際テロ組織の身勝手な規律の原理を素直に受け入れる世代が出てきたのかもな、と思う。


一方で犯人とされる少年たちの実名や顔写真が twitter でどんどん流れてると聞いて、
自警団による公開処刑のメンタリティというかそれもまた怖いことだなと思う。
探すと普通に見つかる。多くは3.11直後のデマのようなトーンだけど、
容易にヘイトスピーチへと結びついているところにこの社会の危うさを感じる。
誰であれ、自分だけが、自分たちだけが正しい。
意見の異なるやつが死のうとどうなろうと知ったことではない。
自分が手を下すつもりはないが、むしろ積極的に死んでほしい。
そういう気持ちを押し殺すことがなくなった。
そういう気持ちをもとに連帯するようになった。


実際怖いよな。東京に暮らしてると。
何考えてるかわからない、どこかおかしな目つきの子どもたちや大人たちを
電車の中であれ盛り場の裏通りであれ見かけ、
素知らぬ顔をして通り過ぎていくのが普通という日常。
地下鉄で隣に立っている人から意味不明の全方位的な敵意を感じて
ああこの人は全く異なる行動原理で生きているのだな、
関わらないようにしようと距離を置いたり、次の駅で下りたりする。
彼らはその敵意をどうするのか。どこでどう発散するのか。
その犠牲になる不幸というよりも、惨めな人たちもまたいるのだろう。


誰もが犠牲者であり、誰もが加害者であるような世の中。
そこでは今日はそのどちらにいるのかだけが重要な価値観となる。
どうすればそのどちらでもないところに立てるのか。
気が付くとそんな自分がいる。
岡崎京子が『リバーズ・エッジ』というタイトルで表したことは余りにも深い。