手話というもの

妻が職場から持ち帰ってきた『PRESIDENT』の特集に
『日本一やさいい「英語」の学び方』とあって
付箋を貼ったページを読んでみてほしいという。


「日本人の知らないもうひとつの日本語」というタイトルだった。
斎藤道雄という元ジャーナリストで
バイリンガルろう教育」を行う「明晴学園」の理事長の方が寄稿していた。


ろう者の第一言語は手話であって、日本語はあくまで第二言語となる。
手話を身につけてそもそも言葉というものを概念的に理解しないうちに
ただ健常者の話すように声というか音を発する訓練をすることには何の意味もない。
多くの場合、口話どころか手話も身につけられずに卒業する。
そのようなことが書かれていた。


知らなかったことがふたつ。


・日本における手話には2種類存在する。
 自然言語として古くから伝わる「日本手話」
 日本語の音声を手の音声に置き換えた「日本語対応手話」


これらは別物。「明晴学園」では前者を教える。
そこでは手話とは手の動きだけではなく
表情や目線やその間合いなどの全体像としてある。


・ろうの子どもたちは手話で夢を見る。


驚かされた。
ろうの子どもたちが夢を見るかどうか、なんてそもそも考えたこともなかった。
もし考えるとしても完全な静寂の中なのだろうと。
このことは夢における言語や身体性の問題を扱ううえでとても示唆的だ。
夢とはとりとめのないものではなく、夢ならではの構造を持つものだが、
やはりそこにはその人自身が依拠する言語が必要不可欠であるし、
だからといって言語だけから成り立つのでもない、ということ。


僕らが話している言葉と手話との間には大きな断絶がありそうで、
実際はその間に僕らもまた身振り手振りを多く活用し、
僕らの会話も純粋に音声だけに寄るものではない
ということを普段忘れてしまっている。
言語における音声や文字の担うパートは、
実は一部分でしかないのだということ。