東京、都市

昨日からレム・コールハースを読んでいる。
ちくま文庫の翻訳。
有名な『錯乱のニューヨーク』ではなく『S, M, L, XL+』の方。
1990年代前半の著述を集めたもの。
アムステルダム出身の建築家なんだけど、
建築の学校に入る前はジャーナリストとして活動していた。
この経歴だけで一癖ありそう。


冒頭数十ページ、ジェネリック・シティやビッグな都市についての言説が続く。
かつての伝統的な都市に置き換わった、ポストモダンリゾームを思わせる都市。
そこに住む人間よりも仮想的な機能ばかりが先行して進化を遂げ、
空間を占める割合は居住よりもそれ自身の象徴性の方が高い、というような。
総面積とか機能性の総和というか掛け算を超えたものになってしまっている。
機能が機能を凌駕してトゥーマッチになっているというか。
カオスの縁が更なるカオスを生んで都市として増殖させると錯覚させる。
レム・コールハースは赤道近いアジアの過剰に発展した都市を想定しているが、
元はニューヨークがイメージの源にありそうだ。


Linda Ronstadt の紙ジャケ『Hasten Down The Wind』(「風にさらわれた恋」)が
都内のタワレコでは「リヴィン光が丘」店にしか在庫がないと知って
取り置きの申込をして受け取りに行く。
その車内で読んだもんだから大江戸線終点の光が丘駅に着いて地上に出ると
周りは高層マンションばかりの人工的な風景に取り囲まれると
ああ、これがそうなのかもなと。
区民センターや大きなショッピングセンターや緑の多い公園が集まっているだけになおさら。
それは住みにくいと言っているのではなく、むしろ現代人には住みやすいし、
何も思わせないだろう。
こういうところに住むということが本来的な意味での
東京というか「TOKYO」に住むということなのだな、と思う。


多摩ニュータウン」というのも行ったとはないし見たこともないが、
そういうことなのだろうか。
その活性度や敷地面積は特に問われない。
いや、その単線的な佇まいは旧時代の都市の末裔であろう。