熊本帰省 その6(8/10)

10時、長崎市街に入る。
夏の日差しの中で街並みがどこか色褪せている。
道路は広いが、少し行くと右に左にわずかにそれる。
大通りに面して背の低いビルがゴチャッと並ぶ。
その背後に細い坂道。
古びた、小さな路面電車がザザザッと走っている。
出島の前を通り過ぎる。
長崎駅を取り囲むように大きな商業施設が。
ここが一番賑わっているのだろうか。
都市としてはこじんまりとした印象を受ける。


平和公園の駐車場に停める。
10分100円だったか。
長崎は坂が多いから駐車場が少なく、駐車料金が高いという。
公園に面して文明堂の総本店という真っ黒な古い店舗が構えている。
ここが本当に本店? その後あちこちで総本店を見かけた。


ゆるやかな坂道を登るとチリンチリンアイスが。
青森でもチリンチリンアイスと言うが、秋田ではババヘラ
長崎と青森で同じ呼び名というところに驚く。
アジア系の観光客が多い。ものすごく多い。
大半が中国からだろうか。韓国も多いのだろう。
あのサングラスをかけた浅黒い人たちはタイからか。
像やモニュメントの前でポーズを取って盛んに記念写真を撮っている。
平和記念像の前であっても。


その平和記念像の周辺は
昨日の式典の会場となった白いテントの片づけが進んでいる。
ロープで遮られ、記念像の近くには入れない。
遠くから眺めるのみ。
義母が言う。
「昔はもっと青い色をしていた。こんな緑色じゃなかった。
 塗り直したのだろうか?」


少し先の原爆資料館へ。
歩いて行けない距離でもないが、あまりの暑さに車に戻る。
資料館の駐車場はいっぱいで20分ほど待った。
建物の前に「原爆殉難教え子と教師の像」が立つ。
その両脇には赤、青、黄色、緑、ピンク、色鮮やかな千羽鶴が。


車を停めて資料館の中へ。地下へと下りていく。
入場券を買ってゲートをくぐる。
時計がカチカチと鳴っている。
「1945年8月9日 11:02」
この日、この時に到る至る経緯と
この日からの反核の歩みと。


破壊された浦上天主堂にて焼け残ったロザリオや使徒の像。
一瞬にして炭と化した弁当箱の底に持ち主の女の子の名前が。
家の壁に焼き付いた植物の影。
顔の右半分がケロイド化した少年と植皮手術を受けた後の写真。
熱でぐにゃりと曲がったサイダーの瓶は触ることができて、
これまでに何万人、何十万人と触ってきたからかツルツルと滑らかになっていた。
生存者の証言。母は皮の剥けた肩で梁を持ち上げ、妹を救い、その夜亡くなった。
目を覆いたくなるような惨劇が並ぶ。
しかしひとつひとつが切り離されて生々しさを失っている。
殺菌されたケースに遮られて、一定の距離を保ったままそれらを目にする。
歴史であり、過去となる。
それでいいのか、とも思うが余りの強烈さに
これぐらいにしないと我々も耐え切れないのではないかという感じもする。
何もかもがやりきれない、というのはどう展示しても変わらない。


ボランティアの年配の男性が展示物の解説を行っていた。
投下の一週間前には危険を告げるビラが撒かれたが、誰も本気にしなかったこと。
原爆:ファットマンの側面に据え付けられた金属のアンテナは
性能の高さゆえに日本製のものが使用されたということ。
当時は疎開していて直接の被爆はなかったが、
若い時には長崎に育ったことを周りの人に言えなかったということ。


上の階にシアターがあって、10分のアニメを見た。
木の上に猫がいて、その下で子どもが遊んでいる。
投下の瞬間、皮がはがれ、眼球がこぼれ落ちた。
人の姿を失った人たちが水を求めて、助けを求めて焼け残った町をさまよい、
そして次々に亡くなっていった。
辛い気持ちになる。どうすることもできない。


出口の売店長崎市の製作した写真集を買う。
永井隆博士の著作のうち、『私たちは長崎にいた』『長崎の鐘』2冊の文庫を買う。
展示の中で一番印象に残ったのが喪に服す永井隆博士の祈るまなざしだった。


外に出て階段を下りて公園へ。爆心地を見に行く。
記念のモニュメントが建てられ、その周りを千羽鶴が取り囲んでいた。
一礼する人、祈りを捧げる人。写真を撮るだけの人。
近くには移設された浦上天主堂の壁の一部。
ガラスのコップなど当時の生活の痕跡が埋まったままの地層。
小さな川が流れる。
その壁に世界中の子どもたちが
ゲルニカ』と同じサイズのキャンバスで絵を描くというプロジェクトの長崎版が。
カラフルな絵で長崎の過去や現在、未来を。
どうなんだろう。
夏の日差しの中で木々の葉が生い茂る。
そのうちのひとつは太い枝の周りに直接葉が一本ずつ生えて、それが枯れていた。
焼けただれた皮膚のようだった。