韓国を嫌うということ

昨日の夕暮れ時、コンビニに行こうと外に出たら
白山通りのあちこちに警官や刑事が。
腕章をして辻々に立っている。終戦記念日以来の数。
だけどさほど緊迫感はなく、二人一組で談笑している。


右翼の街宣車が静かに通り過ぎていった。
スピーカーが一瞬ガーガッと鳴った。
何かを喋りだすかと思いきや、それはなかった。
デモの姿もなかった。声は聞こえてこなかった。


靖国神社で何かあるんだろうか?
一昨日横浜の韓国総領事館に危険物が投込まれたから
更なる報復を警戒しているのだろうか。
だとしたら負の連鎖だ。
彼ら以外誰も望んでいない、暴力。
彼らだけの正義。その押し付け。


日が暮れて帰りがけにまた見てみると警官たちの姿はなく、
いつも通りの町並みに戻っていた。
平和な師走の町並み。


思い出す。あれは昨年だったか。真夏だった。
昼、御茶ノ水の駅前の交差点を歩いていたら
まだ若い女性が棒に括り付けた拡声器を掲げて
韓国人は日本から出ていけとがなり、
私はなぜそこまで嫌うのかということを数え上げていた。
何がそこまで彼女を駆り立てたのか。
一個人がどういう思想を持って、何を話そうがそれは基本的に自由だろう。
しかしその主張の善し悪しを語るレベルとはまた違うところで
とてつもなく歪んでいるものを感じた。


彼女は真夏なのにマスクをしていた。
それだけの主張をするのならば顔を隠すべきではないと思った。
それともこんな空気は吸いたくもないということだったのか。
不自然なくらいに茶色い、脱色した髪をしていた。
街行く人は誰も立ち止まらず。
頷いて聞く者も身内らしい数人以外にない。
彼女の存在は黙殺されていた。


その後彼女はどうしたのか。
次の日も御茶ノ水の駅前に立ったのか。
また別の駅に向かったのか。
あれから一年半が過ぎて、こんな日にどこで何をしているのだろう。