教えると学ぶ

教えている講座での指導陣の集まりが先日あって、こんな話になった。


「作品の質は全体的に上がっていて、平均点は高い。
 だけど昔と違って突き抜ける人がいない。
 その分、変なのもいない。
 上と下の開きがどんどんなくなってきている。
 書いていることが当たり障りなくなってきて、
 その中での上手い下手となっている」


なぜなんだろう?
他の講座でもそうだ。


世の中全般がそうだ、と言ってしまえばそれまで。
ゆとり世代がどうこう、とか。
コンプライアンスでがんじがらめになってどうこう、とか。


こんなことを思った。
(自分自身の反省も踏まえて)


「僕らは教えすぎたんじゃないか」


学校が立ち上がったばかりの頃は
カリキュラムも役割も走りながら考える感じで
教わる方も教えるほうも無我夢中、わけのわからない中、
手探りで試行錯誤しながら日々進めていた。
そういう雰囲気に魅力を感じ取って入ってくる人は確かに存在する。
それはやはり面白い人だ。既成の枠組みに捉われない。


何年かたってマニュアルや制度が整えられてくると
その全体像というか輪郭からはみ出てはいけないんじゃないか
という気持ちが無意識のうちに働いてくる。
超えられる人はなかなか出てこない。
教えている方もいろいろと振舞い方について見聞きしているから
後輩に余計なつまづきはさせたくないとあれこれ言うようになる。
未知の、開拓すべき領域はもはやほとんど残っていない。


そんな中、僕らはいつの間にか下から底上げするようなことばかり教えていた。
本来すべきは上から引っ張るようなことだった。
底上げの方が楽なんですよね。差分を埋めればいいから。
ひとりひとりを見ないで、ざっくり一般論を言えばいいから。
一方で上から引っ張るには、引っ張りたい人を細かく見て
どのタイミングで何を言うか見極めないといけない。
誰にでも当てはまるような大雑把なことを言っても
心に響いて自ら伸びていくということはない。


逆に手取り足取りも教えた気になったようでいて、教えたことにはならない。
そこで考える余地を持てる人はほとんどいない。
(ビギナー向けに最初は手取り足取りだけど、
 そこに自ら考える余地を持たせられるような教育メソッドがあったらすごい。
 成功している教育モデルにはそれがあるのだと思う)


僕らが学ぶ側にいたとき、
「なんだよ、それぐらい最初に言ってくれよ」と思うようなことが何度かあった。
だから僕らが教える側に回ったとき、時間を無駄にさせたくないと
あれこれ先回りしてしまった。
その方が効率いいと。


教えるべきことは、そういうことではなかった。
極論すると解説の言葉は一切不要で、ただ背中だけを見せるだけでよかった。
昔の人は、そんなふうにしていたんじゃないか。
後はやる気があれば勝手に学び取るものだ。