『ドミトリーともきんす』

ドミトリーともきんす

ドミトリーともきんす


『いちえふ』に引き続き、
一昨年の発売からずっと話題だった高野文子『ドミトリーともきんす』をようやく読んだ。
(数年遅れで読むのは評価が定まっているからハズレはないものの、
 それもどうよと今朝は電車の中で『ゴールデンカムイ』を読み始めてみた。今年の漫画大賞)


『絶対安全剃刀』や『るきさん』で独特な感性を発揮した高野文子と共に読む自然科学の名著。
取り上げるのは朝永振一郎牧野富太郎中谷宇吉郎湯川秀樹の4人。
とも子さんときん子さんの母娘の住む家の2階が自然科学を学ぶ学生たちの寮になっていて
そこに若い頃のこの4人が一緒に住んでいるという仕立てがよくできている。
彼らは生活の中にどう、物理学や植物学を置くことになるかというのが簡潔に見えてくる。


4人のうちの1人が2階から下りてきて、とも子さんときん子さんと日々の出来事をやりとりする。
最後に彼らの著作から1ページ読まれる。そんな構成。
「モトグロッソ」にWEB連載され、
http://matogrosso.jp/tomokins/tomokins-13.html
単行本化に当たって、それぞれの著作に関する解説が追加された。


高野文子の切り取り方と組み立て方のセンスも大きいけど、
やはり彼らの言葉が素晴らしい。


「ふしぎだと思うこと これが科学の芽です
 よく観察してたしかめ そして考えること これが科学の茎です
 そうして最後になぞがとける これが科学の花です」
 朝永振一郎(1974)


「数学というのは、出発点はそうでなかったけれども、
 つきつめてゆくとフィクションになる。
 物理のほうは、どこまで行ってもノン・フィクションのはずですね。
 しかし二十世紀になると物理にもフィクションがないとは言えなくなってきた」
 湯川秀樹(1949)


「科学の奥底にふたたび自然の美を見いだすことは、
 むしろ少数のすぐれた学者にだけゆるされた特権であるかも知れない。
 ただしひとりの人によって見つけられた詩は、
 いくらでも多くの人にわけることができるのである」
 湯川秀樹(1946)


これは「詩と科学」という文章なんだけど、
高野文子はただ自然科学を追ったのではなく、
「詩と科学」両方を捉える感性があったからこそ
それが『ドミトリーともきんす』に結実したのだと思う。


学生の湯川君はこんなことも言う。
「科学とは、いっぺん遠いところへ行くことなのです」


それをふしぎだと思うこと。
その憧れが科学というものを形作っている。