出来事

会社の帰りにこんなことがあった。
飯田橋から光が丘まで大江戸線でぐるっと一周して帰ってみようと思った。
70分ぐらいかかるけど、本を読むにはいいかと。
路線の右上の方、上野・両国の辺りは割と空いていた。


とある駅のホームに停車した。
乗り降りのざわめきの間から唸り声、というか叫び声がした。
男性? 「ウォーッ」「ウォーッ」と何度も。
本から顔を上げると乗客たちがこっちに向かって
車両の奥へと逃げてくるか、外に出るか。
見ると反対端のブロックの座席に若い男が顔をすりつけて両腕で覆い、
うずくまっている。両膝を床につけて、震えている。
「殺すなーッ」「近づくんじゃねーッ」「俺を殺そうとするなーッ」
鞄を脇に抱え、その辺の普通の大学生の格好だ。
極端に薄汚れているとか、そんなんじゃなかった。


攻撃ではなく、防備の姿勢。こちらに向かってくる感じはなかった。
唖然として見ていたらすぐにも駅員が来て、車両の外に出そうとした。
青年は両腕で頭を抱えながら振り払い、吠え続けた。
向こうの車両の人たちがこちらを覗き込んでいる。
もう一人駅員が来て、若者は車両から出ていった。
一瞬だけその顔が見えた。焦点が定まっていなかったように思う。
狭いホームの中を走りだし、飛び跳ね、何かにぶつかる大きな音がした。
そしてまた叫んだ。
駅員が取り押さえた。
今のうちに、という感じで慌ててドアが閉まって走りだした。
何事もなかったかのように次の駅で乗客が乗ってきた。


なんだったのか。
ある種の精神的な病だったのか。それとも脱法ドラッグが切れたのか。
酔っぱらってる感じではなかった。
しかし、気が付くと突然座席にうずくまって叫び出していたわけで
それまで普通に乗っていたのか、それともホームに立っていて乗り込んだのか。
いつどんなふうにしてそのスイッチは入ったのか。
理由とか原因とか、案外そういうものはないのかもしれない。
刃物を持っていなくてよかった、
とゾッとした気持ちになったのはだいぶたってからだった。


今、こういう人たちが東京では増えていると思われる。
一日に何件もこんな出来事が起きている。
たくさんの路線にたくさんの車両があるからたまたま出会わないというだけ。
明日は、あるいは一年後は、この僕が叫び出しているのかもしれない。


勝どきでたくさん乗ってきて、大門から新宿まで混んでいた。
終点の光が丘駅で下りた。
車椅子に乗った青年が一人、ショッピングセンターの中を進んでいた。