故郷というもの

この前母に電話したら体の具合がよくないと言っていたのを思い出し、
夜、帰り道歩きながらかけてみる。
青森は今日からねぶただという話になる。
すっかり忘れていた。
今の僕に取ってねぶたは渋谷や表参道で
一台か二台だけ飾ってあるのを見るだけとなった。


福島のことに少し関わるようになって、ここ数カ月の新聞記事を先週いくつか読んだ。
福島第一原発のあった双葉郡の町村は自治体ごと避難した。
震災から5年が経過して、少しずつ帰還への道のりが形になってきた。
短期間の特例宿泊から長期間の準備宿泊へ。
かつての庁舎で業務が再開され、
移動販売が始まり、商業施設がオープンするところもある。


しかし一刻も早く戻ることができたらそれでいいのかというとそんなことはなく
除染がまだ完了していないなどの理由で
住民の方が性急な避難解除にNoというケースも見られた。


故郷は誰にとっても遠い。
いったん距離が生まれてしまうと
それを埋めるのは一生できないんじゃないかと最近は思う。
訪れることはできるが、いくらでもできるが、
そうすればそうするほど遠くなっていく。
かつての自分は今の自分とは違う、
決して元には戻らないというのと同じように。
「故郷は遠きにありて思うもの」と室生犀星も言う。


その故郷があるというだけ、僕なんかはまだ幸せな方だ。
子どもの頃住んでいた場所が地上から消し飛んでしまった。
そんな人たちはこの地球上にいくらでもある。
国という概念的なものがなくなったり、
物理的な土地そのものが荒廃したり。
両親と一緒で、「いつまでもあると思うな」というのが
現代的な向き合い方なのかもしれない。