blindness

最後の瞽女小林ハルの話になる。
1900年に生まれて、2005年に亡くなる。
生後すぐ視力を失い、5歳の時に弟子入りする。
三味線を弾いて唄い、門付けして回ることで生活をなしたが、
もちろんそれは虐げられたものとしての一生だった。
しかしのちに人間国宝と呼ばれるようになる。


明治大正のことを書いた本を読むと
今では考えられないほど、眼病で失明する人が多かった。
青森でも高橋竹山に代表される津軽三味線や恐山のいたこたち。
つまり、境界を行き来する者たち。
音連れる、招き入れる、呼び寄せる。
ここから向こうへと彷徨う。
その間に、心の中にしか見えないものを見続けるのか。
それがより深く物事を見つめることになるのか。
そこに広がっているのは暗闇ではなく、実はもっと違うものではないか。


ネットの時代を経て情報量が爆発的に増大した今、
視覚的情報の重要性も桁違いに増している。
しかし僕らはそのほとんどを処理しきれず、
上っ面を右から左にスルーしてるだけ。
僕らはいったい何を見ているというのか。
形と色彩と動きと。もはや分解することはできない。
誰かが意味づけた様式を借りて同じように文脈に乗せるだけ。


なのにその視覚を失うことを
人類の生きたどの時代よりも恐れている。
大昔の人間たちにとって
身体の一部分を欠損することはよくあることだった。
僕らはその身体を透明な膜に包んで暮らしている。
それを脱ぎ捨てることのできるものは少ない。