「新世界」

主人公はふとしたことからふたつの世界を行き来するようになる。
現実世界では凡庸なサラリーマンだ。
毎日毎日同じことの繰り返し。
ちょっとしたいいこともあれば、不愉快で理不尽な思いを受けることもある。
疲れて帰ってきて缶チューハイを飲みながらテレビをつけて寝てしまったり。
たいした趣味もなく土日に散歩に出かけたところで
特に何かに出会うということもない。


最初は夢の中だった。
真っ暗な空間に何十階建てなのか地平線の彼方まで広がっている。
上を見上げても下を見下ろしても果てしない。
薄暗い照明がわずかに灯っている。
どうも地底のようだ。
人類はもはや地表で生きることはできず、地中に暮らす以外になくなっていた。
しかし絶対的に空間が足りない。
小さい部屋をあてがわれて寝起きするだけ。
無人の工場で作る合成食品を食べ、合成飲料を飲む。
味はともかく食料がいくらでも手に入るのだから働く人間はいなかった。
進化も進歩もないと諦めて、子孫をつくることもない。
だからこの巨大な、地底世界を覆う居住棟も用済みとなって、
かつてはギュウギュウ詰めだったのがその1万分の1以下となった。
静かで物音はなく、時々聞こえるのは遠くの居住棟の一部が崩れ落ちる音か、
発狂した人間の叫び声か。
主人公はこの世界をできる限り探索するが、
全てが崩壊寸前だという以外に得られるものはない。
人に出会っても特徴はなく、たいした会話にもならない。
むしろ、誰かに出会うことが怖くなっていく。


主人公はこちら側の世界で過ごす時間の方が増えていった。
夢の中だけではなく、「現実の世界」をも侵食するようになる。
曲がり角を曲がったら急に広がっていて振り返っても引き返せないというような。
ある時閾値を超えて、現実と思っていた世界の方に戻れることの方が少なくなった。
ある朝目覚めると、何事もなかったかのように「いつもの」アパートで目が覚めた。
テレビをつけると何の違和感もなくニュースが続いていた。
スーツに着替えて満員電車に乗って会社に出かける。
朝礼があって昼食があって、電話がかかってきたり、旧友から飲みに誘われたり。
一日が過ぎていく。
だけど主人公はそれがこの世界で最後の日なのだということを直感的に知る。
最後の一日をそれまで通り、無力なまま過ごす。
それ以外に過ごし方を知らない。夜になる。
だったら店に押し入るか? 人を殺すか? そういうこともできない。


財布を開けると手持ちの金がないことに気付く。
ATMでせっかくだからと全額引き下ろす。
夜の街を歩く。適当に入った店で酒を飲む。ロックではなくストレートで。
裏通りに入る。若者たちの集団に囲まれて、どうせもう要らないと財布ごとくれてやる。
それでも主人公は腹や背中を殴られる。
フラフラになって歩く。どこかに入る。誰かが恵んでくれたのか強い酒を飲む。
さっきの若者たちの一人が「同情」してくれたのかもしれない。
もっとフラフラになって前後不覚になったところで、誰かにぶつかったのか、
徹底的に殴られる。肋骨が折れる。血が流れて目が開かない。
立ち上がることができない。頭の奥が疼くように痛む。
喉の奥のものを吐き出すと歯が何本か零れ落ちた。
ああ、死ぬんだとぼんやり考える。
これで明日から完全に向こう側の世界で「生きる」んだ。
こんな過ごし方でよかったのだろうか。よかったんだろうな。
少なくとも現実の痛みを抱えて、この瞬間を生きている。


主人公は目を覚ます。
こちら側の世界で。朝になっている。
かろうじて起き上がることができた。
裏通りのゴミ捨て場の中だった。
咳が出て、口の中にこびりついた血を吐き出す。
右目は開かないまま。
主人公は何も思い出せない。
自分が誰なのか。ここはどこなのか。自分に何が起きたのか。
何とか前に一歩踏み出す。
さらにもう一歩、震えながら、
全世界の銅鑼を一斉に叩いたかのような痛みに気が遠くなりながら、
引きずった足を前に、わずかに出した。