「Listen, the snow is falling.」

徹夜明け、研究室を出て屋上で煙草を吸っていると今年最初の雪が降ってきた。
ハラハラと白く零れ落ちてくる。
冷たくなった柵にもたれてみる。下を見ると、地上を何人か歩いていた。
何も気づいてないようには足早に去っていく。
まだ雪がそこまで届いてなかったからかもしれないし、
彼ら、彼女たちは職場での仕事のことしか考えてないのかもしれない。


「先輩。うー、さびい」
寒そうに肩をすぼめて、震えながら後輩その1がのそのそと歩いてきた。
着てるのは薄手のミリタリーシャツだけ。あちこち穴が空いている。
「煙草切らしてて」というので一本やってライターも渡した。
「はあ。寒くないんすか? …そっか北国育ちか。そっかそっか」
意味もなく首を振る。そんな癖がある。
「論文書けたんですか? 今日出来上がってないとまずいんでしょ?」


大粒の雪が舞い降りてくるようになった。
綿ボコリのように複雑に絡み合って
ひとつひとつが小さな世界を形作っているような。
一度白衣のポケットにしまった煙草の箱をまた取り出してみた。
振っても音がしない。さっきのが最後の一本だったか。
自分のを吸い終えると後輩その1は無言で立ち去った。
振り返る。屋上のドアは開けたまま。誰もいない階段がそこにある。


研究室の片隅に汚れてボロボロになった熊のぬいぐるみがある。
上半身だけパジャマのようなものを着ている。
青と白のストライプ。卒業生は代々そこに一言残している。
書き切れなくなって、熊はパジャマを2枚重ね着。
そこに誰かが煙草の火を押し付けている。口紅の跡もある。
なのに熊はうっすらと笑いかけている。


あのぬいぐるみは実は私が持ってきたものだった。
2年生の夏、前期ゼミで初めて研究室に顔を出すようになった頃。
ひどく酔っ払った私は気がつくとぬいぐるみを手にしていた。
いつ、どこから持ってきたのか。
先輩たちと外で飲んでいて夜も更けて研究室で飲み直す。
急にしらふに戻って恥ずかしくなって
あの頃なぜか一個だけ隅に立っていたロッカーの中に押し込んだ。
それを誰かがあるとき外に出して別な場所に置き直した。
「あれってオマエのだよな」と言われたりはしなかった。
もう何年も前から、先輩たちが子供の頃から、そこにいたかのようだった。


懐かしい名前がある。
何人かはもっとレベルの高い研究機関に移って今でも研究を続けている。
何人かは普通に就職して結婚をして子供も生まれている。
何人かはいつのまにか行方不明になった。
私はまだ何も書いていない。
何か書くべきなんだろうけど、
私の書くスペースはもはや残されていないように感じる。
私がこの大学に、この国の学問に貢献したのは
あのぬいぐるみだけと言ってもいいのに。


「先輩」
後輩その2だった。
「髪に雪積もってますよ! 大丈夫っすか!?」
ああ、ああ。
そうだ。故郷ではそれぐらい普通のことだった。
ありふれた就職先のひとつに私も収まる。
それが嫌なら、私も故郷に帰ろうか。
母から珍しく電話があって向こうはもう積もっているという。
私の部屋は私が出て行ったときからそのままになっている。
机と本棚にたくさんの漫画と小さい頃から集めた、無数のぬいぐるみたち。


雪が降っている。
今日はどこまで降るのだろう。
天気予報なんて見ない。
空はどこまでも灰色に低く折り重なっている。
「煙草ある?」
後輩その2は口を開きかけたまま、ジーパンのポケットを探した。