PJ離任

今年も残すところあと10日。
8年間所属したPJからの離任まで、営業日で今日を入れて6日(28日まで)。
9月後半のシステム切替案件のリリースが無事終わってからは
(入院・手術もあったというのが大きいが)
あまり大きなタスクは入れず、自席PCの入れ替えもたまたまあったので
ここ8年間の、溜め込んでいた膨大な量の資料を整理するというので大半の時間を過ごした。
中間資料は捨てて、お客さんからもらった紙だけの資料は場合によっては PDF にした。
残されたメンバーが今後使うかもしれないけどファイルサーバになかったものは移しておいた。
それもだいたい終わって、昨日からは机の中の紙資料の大半をシュレッダーに持って行った。


後輩からは「送別会はこれまでにPJ に関わった人全員に声をかけた方がいいでしょうか?」
といろんなリストからかき集めた名前が。
見せてもらって「あー、この人いたなあ」と懐かしい気持ちになる。
しかし呼ぶとなったら昔の連絡先を知ってるのは僕しかいないわけで、いったいどうするんだろう?
「このたび僕、PJから抜けるんですがついては送別会をやろうかと」
って自分でメールを書いて送るのはなんかまぬけ、というかかわいそうな人だ。


100人以上の名前があって、さらに僕が20人ほど足す。
それでも全員ではなく、最盛期のブラックホールのように人を呼び込んでいた時期の
遠く離れたところのチームの人を足そうとするとさらに数十人プラスとなる。
中国にオフショアで出した先まで含めると途方もないことになる。
8年の間に入れ代わり立ち代わりだったけど、
開発のピーク時には一部屋貸し切って一度に30人から40人ぐらいが席を並べていたのではないか。
それが今や少しずつ減っていって7人。僕が抜けて来月から6人。
大きな問題も起きなければ大きな開発案件もなく、淡々と保守開発を続けていく。


8年は長いようであっというま。
僕は33歳だった。SEとして一番いい時期をここで過ごしたことになる。
最初の3年は大変だったけど、そこからは定時で帰れるようになって
SEとしての成長よりも編集学校とかプライヴェートに時間を優先する日々。
つぶしはきかなくなったが、とても楽しかった。
しかもカレー、古本、中古CDの街、神保町だったし。
普通なら最長で4・5年でローテーションのところを延長に延長を重ねてしまった。


前回PJを変わる頃、2007年から2008年にかけての資料が袖机からたくさん出てきた。
ひとつ前に担当したのは雑誌の進行管理システムのリニューアル。
そのとき無事発売された新生第1号の1冊(記念に家に持って帰ることにした)。
新規事業立ち上げのワークショップに参加していた時の恥ずかしいアウトプット。
今回のPJに関わったばかりの頃、置き換え前の旧システムをなんとか解析できないかと
EXCELで表にまとめたものを印刷してさらに手書きして…(こういうのは捨てる)。


後輩には「俺の送別会は屋形船貸し切りで」と言ってある。
さて、どうなることか。
なんにせよ PJ の一大同窓会となりそうだ。