坂口恭平『TOKYO 0円ハウス 0円生活』を日曜の夕方読み始めたら
思いがけなく面白く、月曜のうちに読み終えてしまった。
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多摩川や隅田川につくられたホームレスの「家」を訪ねて行ったもの。
ブルーシートの中は汚れたゴミ捨て場同然の空間なのではなく、
どれも片付いて理路整然としていて、作り手/住み手の哲学を反映したものだった。
出会う人も人間性も個性も豊かな人たちばかりだった。
知恵を絞り、拾ったものをユーモアとアイデアで活かして、家の一部にしていく。
ブリコラージュで茶室をつくるような感覚なのかもしれない。
実はとても日本的な空間なんですね。
しかもそれはいつでも移動可能にすぐ分解・組み立てが可能となっている。
最後の方で「シュヴァルの理想宮」について触れながらこんなふうに書いている。
「家は、独力で、図面なんかに従うのではなく、直観で、
毎日自分の体のように変化させながら、作り続けたほうがいい」
なるほどなあといろいろ考えるところがあって、
次は積読の山の中にあった赤瀬川源平らの『路上観察学入門』を読み始めた。
本の中で何回か、原体験としての秘密基地を挙げている。
そうだ、そうだったよなあと懐かしい気持ちになった。
男の子なら誰だって、家から少し離れた裏山に秘密基地を見つけたりつくってきたり、
そうなることを空想してきた。
子供は近づいてはいけないとされるところに小さな廃屋があるとか。
壊れて動かなくなったトラックやライトバンが置き去りになっているとか。
そこに見立てを働かせて火星ロケットや地球防衛軍の司令室となることができるかどうか。
それが僕らとその空間に課された条件だった。
子供部屋に椅子を並べてあって、布団が三角屋根のように干してあったというだけで
世界にひとつだけの飛行機になってしまうものなんですよね。
雪国に暮らす僕らにとって現実につくることのできる秘密基地はかまくらだった。
小学五年生・六年生の頃は冬休みの前は
「こういうのをつくるんだ」「この部屋は皆が集まる部屋で」ととてつもなく大きなものを。
実際には家の庭に子供2人丸まって入れば精一杯のものにしかならないけど。
でもそれは現実的な小ささはリンクしてなくて、どこかで無限の広さを持ったものとして感じている。
大人になってからも秘密基地への憧れはある。
常連だけが集う隠れ家バーとかそうですよね。
都心のどこかで月1万で一間だけのアパートがあったら、
何に使うわけでもないけど借りてみたい、と時々思う。
そういうのは往々にして築何十年で今にも壊れそうな物件だとしても。
というか大人の男性の究極の秘密基地って結局書斎なんだろうな。