「Aliens」

僕が小さかった頃に住んでいたアパートは今思い出すととてもボロかった。
錆びた鉄の階段は見上げるとプラスチックの庇に苔のようなものが生えていて、
吹きさらしの廊下を歩くと漬物とペンキの臭いがした。
僕が母と暮らしていた部屋の隣には顔色の悪いおじいさんとおばあさんが住んでいた。
廊下に新聞紙を敷いたその上に傾いたカラーボックスを置いて、
ごみなのか荷物なのかよく分からないものが詰め込まれていた。
上には埃をかぶった東京タワーの置物と腐った盆栽が並んでいた。
二人とも親切で夏にはアイスをもらったり、元気かいとよく話しかけられたものだけど
部屋の中には決して入れてくれなかったし、
一度ドアが開いてたのをそっと覗き込もうとしたら
おばあさんの方に無言で睨まれてピシャッと閉められた。
その後も余ったおにぎりやクッキーをくれたり基本は親切な人たちだったけど
あのときの顔が今も忘れられない。


反対側の隣、廊下の突き当たりの部屋には僕が「おじさん」と呼ぶ人が住んでいた。
僕はおじさんになついていた。
おじいさんとおばあさんはよく「いい? あの人と話してはいけませんよ」と言って
僕はその都度うんと答えていたけど、隠れてこっそりおじさんに会いに行っていた。
その頃母はほとんど家にいなくて、日中僕が誰と会っていようと気にしていなかった。
僕が同世代の子供たちと空き地で遊ばず、部屋にこもって本ばかり読んでいたから、
誰であれ人と話すことがあるのならそのことをよしと思っていたのかもしれない。


その頃の僕は UFO とか四次元とか超能力とかそんな本ばかり図書館から借りて読んでいて、
窓を閉め切った部屋で UFO を呼ぶアンテナをつくってみようとしたり、
透視能力を訓練するカードをめくっていた。
おじさんもそういう話が好きだった。
二人きりになるとずっとそういう話をした。
アメリカで家族の前で姿を消したという男性はどこにいってしまったのだろう、
四次元とはどういう場所なのだろう、暗くて怖いところなのだろうか、などなど。
母が僕のために買ってきて冷蔵庫に入れていたケーキを勝手に食べながら、
僕の話に真剣に付き合ってくれた。
おじさんはほとんど部屋から出ることなく、
時々たまにヨレヨレの背広を着て階段をノソノソノソと下りていくことがあった。
その後夕暮れ時にアパート脇の古タイヤに座って待っていると
やけに疲れきっておじさんが帰ってきた。
そんなときだけは僕を相手にしてくれなかった。


おじさんと話すようになって一年かそこら経った頃だと思う。
あるとき、宇宙人に会いたいと僕が話すとおじさんは会ったことがあるという。
いつものようにおじさんは僕の部屋に上がり扇風機に向かっていた。
ワーと僕が目を輝かせるとそのときのことを詳しく語ってくれた。
いついつこの場所でとメッセージを受け取って山奥の湖に向かうと
時間ぴったりに UFO が現れて湖の上空に静止した。
赤に黄色にランプが瞬いてまぶしい。
なのに周りには誰もいない。おじさんしかいない。
「それでどうなったの?」
光の中に小柄な人物が立っていて手招きする。
…気がつくと吸い寄せられていた。
次の瞬間には手術台のようなところに眠っていて、
「怖がらなくていい」とテレパシーで話しかけられた。
そして「あなたは選ばれた人間なのだから」と金属片のようなものを額に埋め込まれた。
「ほら、ごらん」とおじさんはぼさぼさに伸びた髪をかきあげて額を見せる。
ほくろを取り除いたような痕があった。
それ以来おじさんは大学で研究していたのをやめてしまって、
外で働くこともなくなったのだという。
「僕は、選ばれた人だからね」


一度だけおじさんの部屋に入れてもらったことがある。
流し台にゴミが溢れ、ハエがたかっていた。電熱器も物置になっていた。
それ以外は案外きれいだったように思う。
あちこちに何語かよく分からない外国語の雑誌が積み重ねられていた。
本棚には雑然と分厚い本が隙間だらけに並んでいた。
僕は UFO とか四次元とか超能力の本を借りたかったけど、それらしき本は一冊もなかった。
やはり何か難しそうな本が並んでいた。
若い頃は数学と工学を学んでいたと言ってたことがあるので、その手のものだったのかもしれない。
ラジカセ兼用のモニターの小さな白黒のテレビがずっと付けっぱなしになっていて低い音で番組が流れていた。
おじさんはコタツの上で黒っぽくてごつごつした部品がむき出しになった何かの機械をつくりかけていて、
その試作品なのかなんなのか同じようなものがいくつか奥の机に並んでいた。
煙草の灰が山盛りになった灰皿も同じぐらいあった。
「これで UFO を呼ぶの?」と僕がドキドキして尋ねると
おじさんは考え込んで、一瞬間が開いてから「そうだよ」と答えた。
「まだ、完成してないんだ」
「できたら僕も一緒に UFO を呼んでいいかな!?」
「ああ、いいよ。でも、内緒だよ。約束できる?」
「約束する!」


それから何日か僕はずっと興奮していた。
なんでそんなに嬉しそうなのとおばあさんに聞かれても「ナイショ」と言って黙っていた。
それからしばらくおじさんを見かけなかった。珍しいことだった。
一週間かそこらして、背広を着たおじさんが疲れて、足を引きずるようにして帰ってきたときに
僕は子犬のようにじゃれついて「ねえ、まだ? まだできないの?」と何度も聞いた。
おじさんは「まだだよ」とだけ言い残して階段を上っていった。


その後一ヶ月かそこらおじさんと会うことはなく、
あるときおばあさんに呼び止められ、「そこの人、出て行ったみたいね」と。
「よかった、よかった」カラカラと笑う。
あとでドアの前に立つとシンと静まり返っていた。テレビの音も聞こえない。
新聞受けからそっと覗き込むとがらんとした、焼け焦げだらけの畳が見えた。
えー!? 男と男の約束はどうしたんだよ!
僕はしばらくの間、ふてくされて過ごした。


その部屋に誰か他の人が住むことはなかった。
一度だけあった。若い男性だった。しかしすぐ出て行ってしまった。
おじさんはこの世から消えてしまったようだった。
宇宙人に呼ばれて、地球を旅立ったのだと僕は思った。
うらやましかった。何で僕を一人置いていったのかと腹立たしくなった。
数年後、いや、違うんだと僕は考えた。
おじさんはどこかの国のスパイで、あれは通信機だったのだ。
そして気を許した僕に秘密をばらしてしまって、それが元に殺されてしまったのだ。
僕はおじさんに悪いことをした。
本当は僕を、少年探偵団やボーイスカウトのようなスパイの下部組織に誘うつもりだったのかもしれない。


アパートが取り壊されることになったのと母が亡くなったのとどちらが先立ったか。
僕は遠くに住む叔父に引き取られて、そこで高校までを過ごした。
UFO に興味はなくなり、部活で遅くまでテニスをやって家に帰ってからは海外のロックを聴いて過ごした。
母に買ってもらった何冊かの UFO とか四次元とか超能力の本はボロボロになって捨てられた。
あの頃住んでいた町はどこだったのか、その名前を思い出せない。
叔父もそんなこと忘れた方がいいと、はぐらかして教えてはくれない。
あの県のあの郡の、とだいたいのことしか覚えていない。
もしかしたらその町自体、存在しなかったのかもしれない。
10代後半の僕にとっては次第にどうでもいいことになって、
大学を終えて会社に入る頃には記憶が浮かび上がることすらなくなった。


それが今、40を過ぎておじさんのことをよく思い出すようになったのは
僕があの頃のおじさんの歳になったからか。
子供が生まれて家のローンも組んで、
普通の人の普通の人生が重くのしかかってきたからか。
UFO や宇宙人なんていないと思う。というかそれ以前に興味がない。
しかし、「向こう側」というものは確実に存在する。
そこにどうやって行くべきなのかは、わからない。