雨上がりの日曜日

今年に限らず、最近は梅雨が明けてからの方が雨が多いと思う。
昨日はマラソンの後、平和島の温泉からジョナサンに入って飲んでいるうちに
みるみる天候が悪くなって大雨。
今日の明け方も降っていた。


予定のない雨の日、最近は高校の同級生のことを考える。
同窓会の総会が終わってそのビデオの編集も一区切りつきつつあって、
Youtube にアップしたらとても喜ばれた。
昨日の大井ふ頭のマラソン大会のように妻の高校の友人たちと遊ぶことも増えた。


卒業から20数年経過して今でも会う人がいるというのはありがたいことだ。
一方で高校の人たちとの集まりを避けたり、
誰にも会わないようにしている人もまたいるのだろうと。
前にもこのことを書いたかもしれない。


僕らが楽しく過ごしている一方で
過去のことを苦々しく思っている人たちもいる。
引け目を感じてそこに加われないという人もいる。
そもそも特に興味のないという人もいる。今の生活で十分楽しいと。
どうしたらいいのか。どうすることもできない。
僕らはそれぞれに大人になって、そういう選択をしたのだから。
例え選択の余地なく、そうせざるをえなかったのだとしても。
とはいえこれは勝ち組の論理なのだろう。


皆仲良く、というのはどんな集団であっても無理なことだ。
その集団を他の集団と区別して成り立たせるルールやマナーや符号があって、
そのことに興味がなかったり馴染めなかったりする人は一定数いるのだから。
実際僕もこれまでの人生で離れていったものの方が多い。
人生はそういう、集団の中に入っていったり、学校のように望まなかったのに入れられたり、
そこから出ていったり、追い出されたり、フェードアウトしたり、その繰り返し。
常に2つか3つかそれ以上属しながら、その中での関係性を絶えず変えながら。
そしてそのことに疲れきってしまうということもあるだろう。
そのルールやマナーや符号を決めるのが自分ではなく他人であるならばなおさらだ。


孤独とはそれら、ルールやマナーや符号を受け入れられないということだ。
そこに心を閉ざすということだ。
東京のルール、社会のマナー、サークルの中で共有された符号。
大人になるというのはそれらを受け入れるということ。
いや、本来の孤独とはそれらルールやマナーや符号が
与えられない、奪われるということの方だ。


雨上がりの日曜、そんなことを考える。