ウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』であるとか、
桐野夏生の『東京島』であるとか。
その原点としてのダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』
漂流物は面白い。
極限状況でどう生き残るか。
むき出しになった欲望により人間関係はどう変質するか。
安穏に過ごしていた日々への狂おしい思い。
物理的に切り離された場所への島流しではなく、
都会の中で漂流を描けないかと考えていた。
拉致・監禁はそのひとつか。
ひょんなことから言葉の通じない国に取り残された、というのもあるだろう。
逃亡犯が時効の日まで怯えながら逃げ続ける毎日、であるとか。
そういうのではなく、もっと微妙なもの。
上辺だけのコミュニケーションが際限なく繰り返され、
何をしても何を言っても周りの心に響かない。
どこかに属している、何かを生み出しているという実感もない。
絶えず奪われ続ける。何を? あらゆるものを。
一言で言えば、疎外感と孤独感。無力感。絶え間ない混乱。
突き詰めるとカフカ『城』がそうか。
そのような主人公が一人きり、というのは描きやすい。
既にいくらでも存在するだろう。
少人数の集団で描けないか。
しかもそれは少年たち、大学生たち、家族、といったまとまりのあるものではなく
何らかのきっかけで偶然結びついた
様々な世代、背景の男女が都会の中で長い間漂流する、というような。
それを生み出すのは特異な事件なのか、
あるいは迷い込んだ古びた洋館でといった場なのか。
いや、わかりやすい非日常的な空間を用意すると
それはそれでありきたりなものになってしまうだろう。
これがかなりの大規模な集団となると
ジプシーやユダヤ人、迫害された民族の歴史となる。
底辺の階級に生きるということがそもそも漂流なのかもしれない。