ブレードランナーとリドリー・スコットなど

ブレードランナー2049』が公開されている今、
K・W・ジーターによる架空の続編『ブレードランナー3』を読んでいる。
正直、P・K・ディックの100倍は小説がうまいと思う。
ビジュアル的な表現で、読む映画というか。
P・K・ディックはあの文体のぎこちなさがそのまま陰鬱な世界観になってるから
それはそれでとても味わい深いですけど。


ブレードランナー』はやっぱ好きですよね。
映画としての完成度は低い。いや、低くはないか。
正しくは、名画の域に達していない。
ストーリーそのものもたいしたことはない。
P・K・ディックそのままにどこか破綻している。杜撰というか。
しかしそれを補って余りあるあの世界観。そう、世界観。
強力わかもと」に始まって独特なこだわりを持った細部、その全体としての統一感。
SF映画としての完成度は、No.1だと思う。
ある意味、これこそ鑑賞する映画。


作り込んでいるようでいて、案外余白が多いんですよね。
受け手の想像力が働くような。
だから観終わったあと何年もかかって、観た人の中で育っていく。
自分の中の『ブレードランナー』が形作られていく。
そういう映画なのだと思う。
それは作り手であるリドリー・スコットの巧さではなく、むしろ下手さに由来するものだと思う。
そこにこそ、彼の天才性がある。拙いからこそ、伝わる。広がる。
P・K・ディックと同じ。
それができる人は少ない。選ばれた人にしか、できない。


だから『グラディエイター』とか、『ハンニバル』とか、
巧くなってからのリドリー・スコットには何の興味も持てない。
『エイリアン』もあの拙さが全てだった。
続編をこの前やってたじゃないですか。特に観たいと思わない。
テルマ&ルイーズ』だって、そう。
人間や人生を描いたらこの人の右に出る人はいない、という監督が撮ったら
あの映画はとたんにつまらなくなる。あのラストシーンであるとか。


そうなってくるとむしろ、同じぐらい不器用だった弟のトニー・スコットの方を
カルト的な視点で観たくなる。
トップガン』も拙いがゆえにハリウッド映画のセオリーに全面的にゆだねて
監督の芸術性なんてものにうつつを抜かさないからこそ、胸を打つ作品となった。
「案外いいじゃん」という。
トゥルー・ロマンス』はハリウッドのぬるま湯に背を向けて
新進気鋭タランティーノの脚本を映画化。
でもどこかなんか中途半端で。でもその中途半端さが映画ファンには愛らしいという。
そんな屈折した感じ。


えーと、何の話でしたっけ。
一言補足すると、『ブレードランナー』は一人リドリー・スコットの功績によるものではなく、
美術や小道具など大勢のスタッフによる神がかり的な献身があったからこそで。
その辺りはメイキングものの本を読むと書いてある。


K・W・ジーターは最初の『ドクター・アダー』がベスト。
ヴィジョンを持った作家の、最高に陰鬱なヴィジョンがある。