死というもの

帰りの地下鉄の中でP・K・ディック『ドクター・ブラッドマネー』を読んでいたら
「死とは穴の底から空を眺めるようなものだ」といったフレーズがあって、
そうか、そうかもしれない、と妙に納得するものがあった。
穴の底から出ることはできない。遠く向こうの空を眺めることしかできない。
身動きできなくて、「向こう側」は決して近づくことのできない遠くにある。


(ディックは時々、グダグダな文体の中にハッとする洞察を紛れ込ませる。
 『ドクター・ブラッドマネー』はディックが純文学にすり寄った作品の中では
 ベストの一冊かもしれない。
 核戦争後の、起伏のない陰鬱な世界が続くだけなんだけど、ディックにしか描けない)


死とは遠くにあるものなのか、近くにあるものなのか。
言うまでもなく、生にとって死は余りにも近くにあるものだ。
特定の地域、特定の時代に生まれ育てばなおのことそうだ。
逆に、死にとって生は遠いものなのか。
それっきりになって、それ以上何もないようにも思う。


(生まれ変わりというものはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。
 何とも言えない。
 ただただ集団として、生物として、人類は DNA を受け継ぎながら生を続けてゆく)


明日にでも僕やあなたは死んでしまうかもしれない。不慮の事故や病気で。
そのことを忘れてしまって生きていける、遠ざけられるという状態は
幸福なのか、不幸なのか。
そもそもそういう評価軸が間違っているのか。
自らの死の可能性に目を向けることなく生きていけるということは
安穏かもしれないが、人として大切なことに背いているようにも感じられる。


(宗教はこういった問いに答えてはくれないと僕は思う。
 問いをすり替えるし、答えもすり替える)


ディックは死んだ。僕やあなたの身近な人はもう何人も死んでいる。
しかし自分の順番はわからない。
それがいいことなのか、どうか。
死を計ろうとしてもしょうがない。
形あるものとして、意味あるものとして評価しようとしても
そこからは何も生まれない。