身体知

先週の『Lazy Sunday』でジョージさんがこんなことを言っていた。
サーフィンをやっていて、この波に乗るかどうか、
一瞬でも迷ってしまったらその波には乗れないのだと。
0コンマ何秒のことだとしても、タイミングを逃してしまう。
 
続けてこんなことを言っていたと思う。
だから来る日も来る日も海辺に出てかけて
何度も波に乗るということを繰り返すのは
技術の練習というよりも、
その時が来たら頭で判断するよりも前に身体が動き出せるように
感覚を研ぎ澄ませることなのだと。
 
考えなくていい、ということではない。
頭で考えることがその全てではなく
指の先が覚えていること、腹の底が覚えていること、
そういったことのひとつひとつが身体的な知性となり、
頭脳の知性と調和することでより大きな力を発揮するようになる。
 
その身体的な知性は繰り返し試すことでしか身に付かないものであるし、
先達に倣わないといけないし、少しずつしか進んでいけない。
そのために舞踏の型のようなものがあって身体に通していくことで学んでいく。
はるか昔の人類にはそういう知性しかなかった。
 
もっと言えば身体的な知性の時代があって、
頭脳的な知性の時代が社会的な知性の時代と結びついて、
それが AI であるとかネットの向こう側の知性の時代へ。
今はその転換の途上にある。
そんな時代だからこそ、身体的な、指先の、感覚の、知性がより重要になっていく。
でないと受け身になって他人の知性をただ受け入れるだけになってしまう。
その人の知性が奪われていく。
プリミティブな知の受け皿として、やはり身体的なものは必要なのだということ。