吉本の混乱が続く。
ギャラをもらっていないという最初の嘘から始まって、
宮迫・田村亮が一方的に悪いという流れが先週末の二人の記者会見でひっくり返って、
月曜の吉本社長のしどろもどろな記者会見で決定づけられた。
今や所属する多くの若手芸人がここぞとばかりに給料・待遇に関する不満を噴出させ、
一方でベテラン芸人からはそもそも売れるようになれ、とも。
どんどん話がよじれていって
もはやカラテカ入江のコネクションや反社会勢力から
情報を入手することの是非はどこかに行ってしまった。
吉本は結束するのか。芸人が大量離脱するのか。今や話題はそこ。
これがひとつの嘘から始まったというのが、興味深い。
最初の時点で、お金をもらいました、すみませんでしたと謝っていれば
恐らく短期間の謹慎処分で済んだはずだ。
いや、もちろん、闇営業で反社会勢力の忘年会へと知ってか知らずか参加したことが
本来の始まりではあるけれども。
このところ話をおかしくしてしまったのは、
いくらなんでもあんまりな釈明をしたこと。これもまたひとつの嘘だ。
誰もかれもがそれぞれの思惑で、最悪のタイミングで放った嘘が事を大きくしてしまった。
人間が口にすることは全て、多かれ少なかれ嘘なんじゃないかと思う。
というか逆に、何が正しいことなのか、何が事実なのか、突き詰めていくとわからなくなっていく。
そこにあるはずのものが消失してしまう。
正しいこと、というのはそれぞれの立場・状況によって異なるのでまず一致することはない。
事実も「今目の前にボールペンがあります」ぐらいのことしか言えなくなってくる。
しかしそれも「今ってなに?」「ボールペンってなに?」「幻影じゃないってどう証明する?」
などと言い出すと少しずつ輪郭がぼやけてくる。
その「事実」に対して自分はこのように捉えたという「評価」を加えると、
それは「誤解」にはなっても「嘘」ではなくなってしまう。
外交問題の大半がそういうことではないか。
出来事に対する事実以上嘘未満の認識があるだけ。
もし仮にこれを嘘と仮定したならば、もし仮にこれが嘘じゃないと仮定したならば、
という集団のコンセンサスを常に組み立てて修正しながら物事が進んでいくというだけ。
絶対的なものはなく、全てが相対的な仮のもの。
だから大事なことは嘘をつくかつかないかではなく、どういう流れをつくるか、ということになる。
その嘘を含む周りの文脈こそが、人々の意見の対象となる。
そんな当たり前のことを、今回の件で改めて思うことになった。