オザケン『Songs』

昨晩テレビをつけたら『Songs』がオザケンこと小沢健二
どこかの焼き鳥屋の個室の中で焼き鳥を焼いてもらう。
カウンターに iMac を置き、日本に帰ってから最近 twitter にはまっていると
リアルタイムに tweet していく。
生放送だったのだろうか。
事前に収録してオザケンのスタッフがタイミングを合わせてアップしていったのかもしれない。
そんなカタカタとその場でキーを打っていたようには見えない。
 
このまま30分焼き鳥屋で語って終わりかと思いきや、途中に演奏シーンが挟まった。
新しいアルバムからラストの「薫る」と1曲目の「彗星」
その間に「強い気持ち、強い愛」が挟まる。
相変わらず下手なのかどうかというのは変わらず。
 
童顔なのも変わらず。
でも老けたなあ、と思っていたら51歳になったと。
そうかあ。『LIFE』が1995年。あれから四半世紀。
あの当時の音源を聴き直し、ミックスし直したというような話になた。
その直後、あるミュージシャンが気になって
武道館の公演を見に行ったらタイトルに「1995」とあって、何の偶然なのか驚いたと。
音楽というものや言葉というものはそんなふうに巡っていくものなのだなという思いが、
「彗星」という曲を作るきっかけになった。
(ネットでは早々にそのミュージシャンがあいみょんだと特定されていた。
 まあヒントがあったので難しくはないか。
 焼き鳥屋も特定されていた。京橋にある「伊勢廣本店」とのこと)
 
オザケンの魅力ってうまく言えない。
東大大学院に進んだほどの優れた知性、なのだろうか。
それをもっと言うと時間とか生命とか世界というものに対する
パースペクティブ、つまり視野の広さや深さということなのだろうか。
洞察力。それを言葉にするときの的確さ。
どんなラブソングも突き詰めるとその人がどんなふうにこの世界を捉えているか、
それが他の人と異なるから、一致することはないから、ぶつかり合う、
ということを言っている。
そのことにこの国で最も自覚的なのがオザケンなのだと思う。
 
他者とは世界観が重なり合えない存在のことを言う。
ほんの少しでも触れ合えたらいいのか、ぴたりと重なり合えないといけないのか。
僕はあなたとひとつになれないということ。
その悲しさ、切なさ、もっと言うと絶望に対して自覚的になって
やぶれかぶれな衝動を思いっきり逆噴射させてポップに塗り替え切ったのが
『LIFE』という一世一代の大傑作となった。
25年後の今、僕はそう思う。
 
でも、素の暗いオザケンが聞けるということで
1枚目の『犬は吠えるがキャラバンは進む』の方が今も僕は好きかな。
僕もまたずっと暗いまま、ここまで生きてきた。