コンピューターを超えるものは生み出されるだろうか。
今の人類の知性を集積した結果としてそれは可能なのだろうか。
数の概念が生まれる、それを数字で表すようになる、数式で考えるようになる、
計算尺・計算機が生まれる、記憶装置や演算装置の発明、
その道筋の果てにコンピューターというものがある。
小さくなって偏在する、さらに高速・高度な計算が行える、ではなく、
さらに進化させる、ではなく、全く別の次元のもの。
今のコンピューターを、そろばんや電卓レベルに思わせるもの。
それが AI なのだろうか。
コンピューターという窮屈なハードウェアを脱ぎ捨てて
自立する生命体として「存在」するようになったときが、そうか。
人類の計算能力をAIが追い越すという臨界点(シンギュラリティ)を超えるかどうか、
というレベルの話ではなく。
あるいはそれは、計算や数学というものから解き放たれたところから生まれるのだろうか。
言葉・発話、心理学や社会学から生まれる。
定量化できる数値ではなく、定性的な感触や感覚から生まれるもの。
もしかしたらそれは、INPUT ー処理ー OUTPUT というあり方すら変えるのかもしれない。
偶然性を拠りどころとして利用者に寄り添ってひらめきを与えてくれるものであって、
キーボード(INPUT)やモニター(OUTPUT)というものを必要としない。など。
0と1の二進数の単純な演算を瞬時に果てしなく積み上げることで
今のコンピューターがなしえることが成り立っている。
この0と1を数値として捉えるのではなく、
存在論的な「有る」と「無い」としてもっと突き詰めることでそれは生まれるのか。
「無い」はもっと言うと仏教哲学の「空」となるとか。
そんなふうに考えると、0と1の二元論がそもそも
キリスト教的な、西欧的な価値観に寄るものなのだから
演算ではなく、思考(といういまだよくわからないもの)へ。
単純なものに還元していくのではなく、語りえないものを指向するということ。
0か1か、ではなく、0も1も。