インターネットの匿名性について

そんな簡単にはできないとわかっていつつも、
時々思うこととしてインターネットは匿名性を破棄して
実名でしか発言できないとすべきなのではないかと。
あるいは閲覧は匿名でもよいとして、発言は記名性でないとできないとか。
 
インターネットのそもそもの思想、美点に反するというのはよくわかるが、
一部の人の心ない発言が多くのことを台無しにしているとも思う。
匿名をいいことに悪意をむき出しにする。
人によってはたわいのないいたずらのつもりなのかもしれないし、
人によっては鬱憤晴らしなのかもしれない。ひがみとかそねみとか。
あなたのその書き込みは
目の前にその相手がいるとして面と向かって言うことができますか?
ということ。
できないならネットだろうとどこだろうと発言すべきではない。
 
得体の知れない誰かに見張られているという相互監視社会を生むことが
インターネットの進化の目的ではないはずだ。
インターネットはただのツールでしかなくて、結局はどういう利用者がどう利用するかだ。
人間ってそういう生き物なんだな、というのが露呈することになった。
 
実名で発言するならば自分の所属する社会・世間での立ち位置というのを意識して、
社会・世間からの視線を意識して、
普通は客観と主観とのバランスを取るだろう。
匿名性の中にいるならば、その視線が煩わしい、「これが俺の客観」と主観だけになって、
自らの価値観、特に正義感だけで物事は事足りるではないかと考えるようになる。
俺、「一般市民」、だから、正しい。それゆえに正しい。
俺は正しいから正しい。そのトートロジーが正義の暴走を生む。
 
(人によってはそこにさらに表現の自由を付け加える。
 なお、表現の自由を声高に主張した作品は主張者のエゴばかりが際立ってたいがい面白くない)
 
ネット越しのサービスやアプリケーションの利用というのは今後も変わらないし、
さらに進化して便利になると思う。
一方でSNSはどこかに制限が加わるか、あるいは画期的な機能で
誹謗中傷がダダ漏れみたいな状況が改善されるのではないか。
後者であってほしいのだが。
 
もちろん今も、書き込みを行ったアドレスを割り出して発言者を特定することは可能。
しかしそれも犯罪につながるとされた場合のみ。
多くの誹謗中傷は恐らく自分の行っていることは犯罪ではないという意識からなされている。
そこが問題なのだろうか。
インターネットの匿名性というものは幻想にすぎないという意識づけが
最も効果的なのかもしれない。