窓というもの

YKK の CM のシリーズ「窓と猫の物語」が好き。
 
アメリカだろうか、一人の少女が大人になるまでを描く。
 窓辺にいつも茶色い猫がいて、外にいる少女は近づくと両耳を引っ張って顔を振る。
 大学を卒業し、家を出て行く日が来る。そのときも猫は窓辺にいる。
 
・飼い主のおばあさんが外出してお留守番。
 仲間の猫を呼んで家中で飛んだり跳ねたりいたずらし放題。
 夜になっておばあさんが帰ってくると全て片付いていて何食わぬ顔で窓辺で迎える。
 
などなど。猫ってこともあるからだけど。
 
窓って面白いよな、と思う。
概念的には、人類の歴史にとって車輪に並ぶ大発明だと僕は考える。
洞穴に暮らしていた時、そこにはひとつの出入り口があるだけだった。
木々を組み合わせて粗末な家をつくり、壁に土を塗り固めるようになったとしても
壁はあくまで壁であって、長い間人類は窓を開けることを考えなかっただろう。
寒さを防ぎたいし、外敵から侵入されたくない。
粗末な造りで壁に隙間が開いたとしてもそれを決して広げない。
意図的に開けて装飾を施すようになるのは相当後になってからのはずで、
そもそも透明なガラスが発明されない限り窓を開ける意味がない。
一年中暖かくて身の危険もない、南国の楽園のようなところでない限り。
 
窓の役目というのは、内と外の間にあって、
こちら側にいるまま、向こう側を覗き見ることができるというところにあると思う。
人類の歴史は内と外の関係を巡る歴史であった。
部屋や家という形のあるものの内と外。
集団や国という形の無いものの内と外。
身体の内と外。心の内と外。
内から外に意思をもって出て行くことや力で押し出されること、
外から内に侵入することや帰ることには
単に場所の移動にとどまらない象徴的な意味を伴ってきた。
出入り口をまたぐという行為は通過儀礼にも芸術作品にもなってきた。
物語というものも、必ず何らかの内から外に出ることから始まる。
 
そのとき、出入り口から出て行く前に
物理的なガラス窓であれ概念的な窓枠的なものであれ、
窓という隙間から垣間見ることによって外界を知る、想像をする、
という前段階が存在することが人の有り様を豊かなものとしてきた。
それは近代においては望遠鏡や顕微鏡になったし、
現代においてはテレビやブラウザというものになった。
 
窓から身を乗り出し、外を歩く誰かに手を振ること。
病床から窓越しに見る枯れた木に自分を重ね合わせること。
玄関の鍵をなくし、窓ガラスを割って外からくぐり抜けること。
窓というものが無ければ
僕らの人生は何とも味気ないものになったことだろう。