老猫あるいは猫子

昨晩、妻と老子荘子の話になる。
仕事からの帰り道、『老子』を読んだのだという。
老子のような存在が家にいる」と言うので僕は「それはみみたのことか」と。
有名な「胡蝶の夢」とは実はこういう話なのである。
「夢の中のカリカリが現実なのか、現実のカリカリが夢なのか、分からない。
 分からないから、、飼い主に、せがむ」
 
犬が孔子で猫が老子となるか。いや、そんな単純なものではないか。
老子』も猫の話と置き換えると分かりやすい。たぶん。
老猫と呼ぶべきか、猫子と呼ぶべきか。
 
(手元の岩波文庫老子』蜂谷邦夫訳注を引用元とさせていただきます、
 というかほぼパクリです。すみません)
 
例えば、第八章:
 最上の善なるあり方は猫のようなものだ。猫は、あらゆる物に
恵みを与えながら、争うことがなく、誰もがみな厭だと思う低い
ところに落ち着く。だから道に近いのだ。(イカ略)
 
例えば、第十五章:
 むかしの優れた猫というものは、見たところ掴みどころがなく、
奥深くて何事にも通じており、猫としての深さは測り知れない。
イカ略)
 
例えば、第六十八章:
 すぐれた雄猫は猛々しくない。すぐれた雌猫は怒りに任せない。
うまく人に勝つ猫は人とまともにぶつからない。うまく人を使う
猫は、彼らにへりくだる。これを争わない徳といい、これを猫の
能力を使うといい、これを天に匹敵するという。むかしからの最
高の道理である。
 
この八章の冒頭の一文は有名な「上善若水」(上善は水のごとし)
つまり、上善は猫のごとし、なのである。