甲子園の交流試合が後半戦へ。
一試合目の履正社と星稜の試合を見る。
去年の夏の決勝戦の再現となり、今回一の好カードか。
実力としてはどちらも互角だったと思う。
ただ、2回に集中打で6点を取った履正社の方が流れを掴むのがうまかった。
終戦記念日だったから、正午に試合が中断され黙祷となった。
大学生まで終戦記念日の頃はお盆だから母の実家で過ごして、
この瞬間はいつもテレビの前で同じように高校野球を見ていたことを思い出す。
祖父母から戦争のことを聞くことは一度もなかった。
母を通して聞くということもなかった。
青森の山奥だと語るべきようなことは何もなかったのかもしれないし、
ただ単に語りたくなかったのかもしれない。
村から若い人はいなくなったが、恐らく食べものに困るということはなかっただろう。
市街地ではないため空襲の危険性もない。
広い家の片隅には昭和の時代の色褪せた家具や家電のあれこれがあったが、
戦争を思い起こさせるものは見たことがなかった。
いや、それはただ単にあの時代にはそもそも物がなかったということか。
片足を失って義足で、ボロボロになった軍帽をかぶり、
白いタオル地のような入院着のようなものを着ていた。
何をするでもなく無言で立ったまま、足元に置いた箱にお金を入れてもらうのを待つ。
その痩せこけた頬と無精ひげを今も思い出す。
小中高とよく遊びに行った叔父は青森市の港の近くに住んでいて空襲を受けた。
そのときに家で経営していた缶詰工場を失ったんだったか。
いや、それは別な話か。
今思うともう少し詳しく聞いておけばよかった。
いつでも聞けると思っているうちに亡くなってしまった。
そんなふうにして亡くなられていく方がこれまで大勢いたのだろう。
戦後生まれの母も70を超えた。
そう思うと相当な時間が過ぎた。
戦後100年という年、僕は70歳になっているのだな。
その頃まで生きているだろうか。
日本という国はまだあるだろうか。