春から梅雨に差し掛かって、怪談の季節。
一昨年・昨年で角川ホラー文庫の実話系をがっつり読んで
今年は遂に竹書房の文庫にまで手を出しました。
いろんな人の体験談を読んでいてときどき気になるのは、
「そういう」存在はなぜ身体のパーツの均衡が崩れているのか、ということ。
道端に俯いて立っていた女性の腕が異様に長くて地面に着きそうになっていた。
屋根裏で音がするので覗いてみたら見知らぬ女の子がいて目が顔を覆うサイズだった。
すれ違った人がどこかおかしいと思って思い返したら目、鼻、口が逆さまだった。
口裂け女だってそのバリエーションかもしれない。
鉄道などの事故で亡くなられた方がその被害に合われたままの姿で
線路脇に立っているという目撃談がよくあるが、そういうのとは違う。
肉体を失った後にこの世界に再度現れるとき、
パーツを再構成するがうまくいかずにいる。
パーツを全て集めきれない。
どう並べていいかわからずにいる。
その大きさを忘れてしまった。
そんな印象がある。
あるいは、何かを強調したかったのかもしれない。
理性や思考というものがなく、ただそこに感情の残骸としてあるだけだから
細かいことは気にしないのかもしれない。
いろんな体験談を読むとき、
僕はこの手の均衡が崩れてしまった存在や空間というのが一番怖い。
理屈や常識というものが通じない、向こう側の世界の論理を突き付けられるようで。
どうしていいかわからなくなる。
絶対関わりたくない、と怖気をふるう。(それゆえにもっと読みたくなってしまう)
「そういう」存在は常に、向こう側の世界との裂け目をまといながら現れる。
向こう側の世界に半分挟まった状態で現れる、のかもしれない。
なんにしても個々のパーツの大きさ、位置、欠落といった個別の問題ではなく、
全体性の問題のように思う。
不完全であるほどよい、似て非なるものの度合いが高いとよい、というような。
その存在自体が、向こう側にあるのだから。