野球は誰がするものなのか

多摩川べりを走っているとグラウンドで小中学生がコーチの指導の下
野球やサッカーをやっている。
子どもたちだけが集まっているということはなくて
少し離れたところに保護者が固まって見守っている。
本格的になると折り畳みのイスや風よけを用意して
テーブルの上に保温ポットやサンドイッチやおにぎりを山のように置いている。
これは誰それさんが持ってくる、これは誰それさんが作ってくる
と担当が決まっているのだろう。
それを欠かすわけにはいかない。無言のプレッシャーがある。
実際、息子を少年野球チームに通わせている人に聞いたら、
ほとんどの日曜が練習や試合で朝から夕方まで他に何もできなくなるのだそうだ。
それを聞くと大変そうで、
自分に子どもがいたらスポーツをやらせないかもな、なんて思う。


子どもが野球をやりたがったので近くの少年野球チームに入れたんだけど
そこに集まっている保護者たちとそりが合わなくてやめさせて他に移った
なんて人もいるんじゃないだろうか。
コーチの指導力とかその子の友だちがいるとか子どもの側の都合はもはや問題とならない。
いや、そんなことはなくて
息子や娘が蹴ったり投げたりしていたら無条件に見に行きたくなるものなのか。


僕が小さかった頃、近くのリトルリーグは
コーチの周りに集まった子どもたちが勝手にやってるものであって
保護者は食事の時間だからと迎えに行くことはあっても
ずっと見守ったりはしないものであった。
時代が違うのだろうし、青森と東京の差もあるのだろう。
東京で子どもを育てていると
一人にしているのも集団の中にいるのも不安、ということか。
子どもができたので東京を離れて地方へ、という人の気持ちがなんとなくわかってきた。
かといって地方がおおらかで安心とも限らないが。


今のこのご時世だと小学校や中学校のクラブ活動も父母つきそい、なんてこともあるのか。
受験シーズンに入って、目の前のこの人たちは受験生とそのお母さんなのだな
と気づくことが時々ある。
この数年で結構普通のことになった。
過保護の悪循環から抜け出せない。
地域のコミュニティからおおらかさが少なくなって、
自分の身は自分と周りの人たちで守るというか。
実際のところはどうなんだろう。