ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踏団 日本公演2004

ピナ・バウシュ率いるヴッパタール舞踏団の来日公演を見に行ってきた。
場所は新宿文化センター。
先月 la la la human steps を見に行ったときチラシが入ってて、
「おお、来るのか。行かねば」と思った。
ピナ・バウシュに関してそんな詳しくはないが、名前は聞いたことがあった。
この人もまた現代の舞踏における第一人者。見といて損はないだろう。


プログラムは2つに分かれていて
日本に題材にした新作「天地 TENCHI」と80年に初演された代表作「バンドネオン
僕は「バンドネオン」の方を見ることにした。
http://www1.ocn.ne.jp/~ncc/pina04/tokyo.html
このページの下の方でも紹介されてるんだけど、
本来ならば向かいあって踊るはずの男女が
向かい合いつつも女は男の肩の上に乗っかっているというこの写真の異様さに
僕は心を奪われた。
(チラシやプログラムではこの写真の大きなサイズのを見ることができてとにかくインパクトがある)
男は女の下腹部に顔を押し付け、女の着ている服は乱れ、肩が露出している。
女の右手が男の左手に重ね合わされている。
女の目は虚ろとなり、どこともない場所を見つめている。
「舞踏」ということになっているが、これはいったいなんなのか?


ピナ・バウシュは1940年ドイツ生まれ。
アメリカに渡っていくつかの現代的なバレエ団にて活動した後、帰国。
ヴッパタール市立劇場のバレエ部門の芸術監督に就任するとその名称を
「タンツテアター・ヴッパタール」に変更。
「タンツテアター」とは「動く演劇」のことであって、
この名の下にピナ・バウシュ独自の舞踏表現を追求していくことになる。
実際の舞台を見る限り舞踏というよりは抽象的な演劇に近いのであるが、
全世界から集まった団員たちにはクラシック・バレエの素養が求められ、
日々過酷なバレエのトレーニングが課されるのだという。


舞台の上ではブエノスアイレスのカフェ・バーが再現されている。
奥にはアップライトのピアノ。
ボクサーの等身大の写真があちこちに飾られている。
壁にはコートや上着が掛けられ、
舞台前方にはびっしりと隙間なくカラフルな鞄や袋の類が一列になって置かれている。
乱雑に並べられた椅子と丸テーブル。
スピーカーとスタンドに立てられた照明が舞台の袖に配置されている。
1人の男が現われると日本語でセリフを語り始める。
肩をすくめて「ナニヲシタライインダ?」
彼の片方の鼻にはティッシュが詰められ、
こっけいな役回りの立場であることが見て取れる。
ドアが開くと男性たちが現われ、ゆっくりと歩きながら
着ている上着を脱いでたたんだりまた羽織ってみたりを繰り返す。
手近の椅子に座ってみたり、また立ち上がったり。
やがて最初の男が一人一人に質問を始める。
「アナタニトッテノまりあノインショウハ?」
−−−「ボクノくらすデイチバンセノタカカッタオンナノコ」
−−−「まりあ・からす、ぶらっでぃー・まりー」
舞台袖に女性たちが現われると同様の質問を繰り返す。
(そう、ダンサーたちは主要なセリフの多くを日本語で話した。たいしたものだ)


1人の男が現われると彼は着ていた衣服を脱ぎだし、女性用のバレエの衣装を身にまとう。
チュチュというのだったろうか、「白鳥の湖」で出てきそうな銀色のやつ。
ぶかぶかで体に合っていない。着ているのが中年男性だけあって
醜悪というか、倒錯した目を覆いたくなるようなみじめな光景となる。
彼は1人でバレエの基本的な動作を練習し始めるのであるが、
誰も彼のことは気付いてないようである。
ある瞬間には女性たちの1人が舞台中央に体を投げ出し、激しく泣き叫ぶ。
同じように誰も彼女のことは構わない。
唐突なシークエンスが次々に現われては消えていく。
男女のペアがあちらこちらで、頬を叩き合ったり、緩やかに踊ったり、
恋愛沙汰を極端にデフォルメした動作を繰り広げる。
古びたタンゴの曲のテープに合わせて。
響き渡るバンドネオン


やがて、先に書いた場面、向かい合い踊っていた男女が
女は男の肩の上に乗り、静かに何事もなかったかのように踊る場面で
前半部分のクライマックスへ。
踊りなのに踊りではなく、舞踏なのに舞踏ではなく。まして演劇でもない。
濃密でむせ返るような何か、それでいてひどく均衡を崩した何かが展開される。
突然の叫び声とともに男女は地面に腰を落とし、
座って両足を落としたまま(女は男の足の上に自らの足を重ねる)、
音楽に合わせてさらに踊りを続ける。
照明が落とされる。ドアが開くと裏方の男たちが舞台の上に大勢現われて
スタンドに立てられた照明や壁に架けられたボクサーの写真や、
その他あれやこれやの舞台装置をピアノ以外全て片付け始める。
舞台前方を照らし出すわずかばかりの明かりの中で。
鞄を片付け、椅子を片付け、挙句の果てには床に敷いていた絨毯まで引き剥がす。
その間もダンサーたちによる踊りは続く。
タンゴを踊っている男女。所在投げにうろつき回る男女。
男たちは前屈みになって並び、体育の時間でやったように1人ずつ跳んでいく。
そのうちにダンサーも裏方の人たちも消えていく。
何もかもが消えてなくなった舞台だけが残される。


異質なものとしか言いようがない。
見てて僕はゾッとしたような気持ちにもなったし、
初めて目にする類の光景に興奮もさせられた。
表現というか芸術として純粋に高められ、突き抜けたまま完成の域にまで到達したもの。
バレエから始まって独自の世界を確立した表現というものを
サロメ」やモーリス・ベジャールla la la human steps などとこのところ見てきたが、
何かとんでもないものとしてはこれが一番だった。
演劇でもなければ舞踏でもなく、
ダンサーたちによるいくつかのシークエンスを積み上げていく中で
ただただ純粋に表現としての高みへと上り詰めていく。
すごいものを見てしまった・・・。


休憩を挟んで後半へ。
前半がストーリーではないにせよ何か一定のラインに沿って進んでいくようなものであったとすれば
後半は舞台装置と共にそういう枠組みもなくなり、さらに取り止めのないものへ。
水槽の中のペットのネズミに話しかけ、
小学校で先生に受けた体罰をヒステリックに糾弾し、
サッカーのファウルについての講義と実地指導がなされ、
ハイネの「美しい五月」を日本語で朗読し、
男たち女たちに見守られる中でブリッジを披露する。
ステージ中央に集まった男たちが拍手喝采する中で女たちが1人ずつ現われて拍手を受ける、
女たちが一通り登場すると男女役割を入れ替えて同じことをする。しかも2回も。
これらの出来事の間、チュチュを着た中年男性は時折現われては
ゆっくりとした動作で1人きりバレエの練習を続ける。
そして唐突に全てが終わってしまう。
前半とは違って何のクライマックスもなく。


カーテンコールにピナ・バウシュが現われる。
この「バンドネオン」を通じて訴えかけたかったものはいったい何か?
なにもわからない。
その人次第なんだろうな。印象であるとか、感覚であるとか。
ストーリーが自分の中で浮かび上がってくる人もいるだろうし、
何らかの思い出に重ね合わせている人もいるだろう。


来年も来るらしい。これは来年も見てみなくては。

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この日はその後最近知り合った人と銀座で食事して、遅くまで飲む。
インド料理の店「グルガオン」と沖縄料理の店「リトル沖縄」
どちらもいい店だった。