「世界の終わりに」ようやく完成(その2)

月曜の夜に映画が完成して以来、なんだかぐったりしている。落ち込んでいる。
映画が完成した後はいつもこうなる。消耗とか、虚脱とか。
祭りの後のような感覚がある。
心の中にぽっかりと穴が開いている。
「終わったー!やったー!!」という気持ちには絶対ならない。
1つの作品が生み出されて、僕の手から離れて、
また僕は1人きりポツンと取り残されて孤独になる。
「他人とつながりを持っているもう1人の自分」とでも呼ぶべき存在が
いなくなってしまうかのようだ。
その作品を通じて得られた他人との接触
その夢のような時間が全て消えてしまうような感覚とも言えるかもしれない。

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今回の作品は完成してみて自分でもよくわからないものになった。不思議な作品。
「わからない」というのは理解できない、の意味ではない。
もっと根源的なもの。


これまで作ってきた中では最も「わかりやすい」作品だと思う。他の人にとっては。
でもその分最も「わかりにくい」かもしれない。
(もちろん、「わからない」と「わかりにくい」は違う)
あるがままを受け入れて理解するのは難しいと思う。
初めて見る人にはなんのことなのかよくわからないまま、
淡々と時間が過ぎていって終わってしまう。


空っぽな作品だと思う。そこに込められているところのものは何もない。
深い意味だの意図だのメッセージだのというものは何もない。
かといってエンターテイメントではない。芸術でもない。
ただ単純な1つの「作品」としか呼びようがない。
しかるべき過程があって、完成したというだけの。
ふわふわしたものがある日突然浮かび上がってきて、
僕はそれを無造作に掴んで、何日かかけて、いろんな人に手伝ってもらって完成させた。
やむにやまれぬ「映画をつくりたい」という欲求に突き動かされたとか、そういうことはない。


そこにあるのは映像と、言葉と、声と音と音楽だけ。
どこかに向かってそうでどこにも向かってない、
その逆にどこにも向かってないようでどこかに向かってる
そんな時間と空間の感覚だけ。
その結びつき、組み合わせで提示される何らかの感覚/感触だけ。
その感覚/感触が他の人にとって
居心地がよかったり物事を考えさせたりするような
そんな前向きな力を持っているかというと、
そこのところは否定的に捉えている。いつものことながら。
たぶん、そういう力は生み出しえていないと思う。
つまり、見る人に何の感動も与えない。
僕自身この作品から何を受け取っていいのかよくわからない。
どこかには到達したんだけど、そこがどこなのか、
どういう意味を持つのか、よくわからない。


人に見せたらいけないような類いの作品なのではないかとすら思う。
個人的なことだけを綴った、前作「29」以上に。
恐らく見る人は、そこで提示される映像と言葉の組み合わせに対して、
僕が意図していたものとは全く別の何かを見出して、
あるいは何も見いだせなくて、
困惑することになるのではないか。

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1つ言えるのは、編集結果の確認のために僕はもうこの作品を
先週水曜の祝日以来少なくとも10回は繰り返し見てて、
その過程でどんどん僕の中で作品から意味が剥ぎ取られていったのかもしれない。
例えば「魚」という単語があって、
「サカナサカナサカナ」と心の中で唱えているうちに
その単語のもつ音と意味とが分離してしまうかのように。
「サカナサカナサカナサカナサカナサカナサカナサカナサカナサカナ・・・」


なので、おかしな視点からこの作品のことを眺めているのではないか。

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とは言ってもね。


・・・作った本人だからはっきりとわかるけど
結局今回もまた、人の心を打つような作品とはならなかった。
時間をかけて人に手伝ってもらって、
30歳の今、自分は何をしているのだろう?と思う。


そういうのもあって、落ち込む。
寂しい気持ちになる。