学校で必要になったため、簡単な漱石年表を作成する。
(新潮文庫巻末の年表などを元にしています)
そこからさらに2パターン発展させてみた。
・「日本史」「日本文学史」を並べたもの
・「イギリス史」「イギリス文学史」を並べたもの
(『情報の歴史』から歴象を抜き出しています)
元は同じ年表だったとしても
日本を背景に置いたときと
イギリスを置いたときとでは受ける印象が異なる。
前者はお互い近い距離にあって
一日本人、一日本人作家としての夏目漱石が浮かび上がってくるし、
後者は英文学科入学、英文科講師、英語留学といった接点で
ふたつの世界が重なり合う。
今回は3つのトラックを重ねてみたけど、
歴史というのは本来これらひとつひとつのトラックを指すのではなく、
もっとたくさん、様々な視点の流れが重なり合って
その全体像として浮かび上がってくるものなのだと思う。
|*漱石史 |■日本史 |●日本文学史
1867 K03|[0歳]江戸牛込馬場下町で生まれ|大政奉還上表を朝廷に提出|
| る。本名金之助 | |
| | |
1868 M01|[1歳]夏目家の書生だった塩原昌|五カ条の誓文、明治維新 |
| 之助の養子となる |江戸を東京と改称 |
| | |
1871 M04|[4歳] |廃藩置県(3府302県)と |
| |文部省設置 |
| | |
1872 M05|[5歳] | |福沢諭吉『学問のすすめ』
| | |
1873 M06|[6歳] |渋沢栄一、第一銀行開行 |
| | |
1876 M09|[9歳]養母が離縁されたため、塩|東京大学設立 |
| 原家在籍のまま生家に戻る| |
| | |
1877 M10|[10歳] |西南戦争おこる |
| |自由民権運動・国会開設運|
| |動の抬頭 |
1878 M11|[11歳] | |フェノロサ、東京大学で講
| | |義はじめる
1881 M14|[14歳]実母千枝死去 | |
| | |
1881 M14|[14歳]私立二松学舎に入学し、 | |
| 漢学を学ぶ | |
| | |
1882 M15|[15歳] |嘉納治五郎、柔術諸流を統|
| |合、柔道開始 |
1884 M17|[17歳]大学予備門予科入学 | |三遊亭円朝『怪談牡丹灯籠』
| | |
1885 M18|[18歳] |伊藤博文内閣組閣 |
| |(初の西洋式内閣制度) |
1886 M19|[19歳]落第によって心機一転し、| |坪内逍遥『当世書生気質』
| 以後卒業まで主席を通す | |『小説神髄』
| | |
1887 M20|[20歳] | |二葉亭四迷『浮雲』
| | |
1888 M21|[21歳]塩原家より夏目家に復籍。| |
| 「夏目金之助」に戻る | |
| | |
1888 M21|[21歳]第一高等中学校予科を卒業| |
| 本科第一部(文科)に入学| |
| | |
1889 M22|[22歳]正岡子規を知る。初めて |大日本帝国憲法発布 |大槻文彦『言海』
| 漱石の号を用いる |東海道本線の全通 |
| | |
1890 M23|[23歳]帝国大学文科大学英文科に|第1回帝国議会 |森鴎外『舞姫』
| 入学。文部省貸費生となる|豊田佐吉、木製人力織機発|(和文脈と欧文脈を融合)
| |明 |
1891 M24|[24歳] | |幸田露伴『五重塔』
| | |
1892 M25|[25歳]夏、子規と共に京都、堺に| |
| 遊び、高浜虚子を知る | |
| | |
1894 M27|[27歳]血痰を出し、初期の肺結核|清と日本、相互に宣戦布告|内村鑑三『代表的日本人』
| と診断された |(日清戦争開始) |
| |北里柴三郎、ペスト菌発見|
1895 M28|[28歳]愛媛県尋常中学校(松山中| |樋口一葉『たけくらべ』
| 学)教諭に就任 | |『にごりえ』『十三夜』
| | |
1895 M28|[28歳]貴族院書記官長中根重一の| |
| 長女鏡子と婚約を交わす | |
| | |
1896 M29|[29歳]第五高等学校講師に就任し| |『ホトトギス』創刊
| 熊本に赴く | |
| | |
1897 M30|[30歳] | |尾崎紅葉『金色夜叉』
| | |
1898 M31|[31歳] | |正岡子規『歌よみに与ふる
| | |書』
1900 M33|[33歳]文部省より英国留学を命ぜ|普通選挙運動が全国化 |泉鏡花『高野聖』
| られる。妻子を残して出国|日本で最初の公害闘争、 |
| |足尾鉱毒事件 |
1901 M34|[34歳]留学費の不足、孤独感など| |与謝野晶子『みだれ髪』
| から神経衰弱に陥る | |
| | |
1902 M35|[35歳]強度の神経衰弱に陥り、発|日英同盟調印 |
| 狂の噂が日本に伝わった | |
| | |
1903 M36|[36歳]帰国。小泉八雲の後任とし| |
| て東京帝国大学英文科講師| |
| | |
1904 M37|[37歳]初めて書いた創作『吾輩は|ロシアに宣戦布告、日露戦|ラフカディオ・ハーン
| 猫である』が好評を博す。|争はじまる |(小泉八雲)『怪談』
| | |
1905 M38|[38歳]『吾輩は猫である』を「ホ| |
| トトギス」に発表 | |
| | |
1906 M39|[39歳]『坊っちゃん』『草枕』を| |岡倉天心『茶の本』
| 発表 | |島崎藤村『破戒』
| | |国木田独歩『運命』
1907 M40|[40歳]朝日新聞社に入社 | |田山花袋『布団』
| 『虞美人草』を連載 | |
| | |
1908 M41|[41歳]『夢十夜』ののち、『三四|ブラジルへの最初の移民、|永井荷風『あめりか物語』
| 郎』を朝日新聞に連載 |笠戸丸で出航 |
| | |
1909 M42|[42歳]『それから』を朝日新聞に|伊藤博文暗殺(韓国の民族|北原白秋『邪宗門』
| 連載 |主義者安重根) |
| | |
1910 M43|[43歳]静岡県修善寺温泉で多量の|大逆事件、幸徳秋水逮捕 |柳田國男『遠野物語』
| 吐血をして人事不省に陥る|日韓併合 |長塚節『土』
| | |谷崎純一郎『刺青』
| | |小川未明『赤い船』
| | |柳宗悦、武者小路実篤、
| | |志賀直哉ら、『白樺』創刊
1911 M44|[44歳] |野口英世、梅毒スピロヘー|平塚らいてう
| |タの純粋培養に成功 |『元始女性は太陽であった』
| | |有島武郎『或る女』
| | |武者小路実篤『お目出たき人』
1912 M45|[45歳] |明治天皇崩御、 |石川啄木『悲しき玩具』
| |大正天皇即位 |
| |乃木希典大将夫妻殉死、 |
| |文壇を震撼(漱石に衝撃)|
1913 T02|[46歳] | |中里介山『大菩薩峠』
| | |
1914 T03|[47歳]『こころ』を朝日新聞に連|日本、ドイツに宣戦 |
| 載 | |
| | |
1915 T04|[48歳]『硝子戸の中』ののち、 |中国に21カ条要求 |
| 『道草』を朝日新聞に連載| |
| | |
1916 T05|[49歳]胃潰瘍の再発に倒れる。漱|憲政会結成 |鈴木大拙『禅の研究』
| 石山房で胃潰瘍のため死去|(政友会と二大政党時代)|芥川龍之介『鼻』『芋粥』
|*漱石史 | □イギリス史 |○イギリス文学史
1867 K03|[0歳]江戸牛込馬場下町で生まれ|第2次選挙法改革(都市労|
| る。本名金之助 |働者の大部分が有権者) |
| | |
1868 M01|[1歳]夏目家の書生だった塩原昌| |
| 之助の養子となる | |
| | |
1869 M02|[4歳] |ミル『婦人解放論』 |
1872 M05|[5歳] | |キャロル『鏡の国のアリス』
| | |
1874 M07|[7歳] |東インド会社最終的に消滅|
| | |
1875 M08|[8歳] |スエズ運河の17万6千株を|
| |1億フランで購入 |
1876 M09|[9歳]養母が離縁されたため、塩| |
| 原家在籍のまま生家に戻る| |
| | |
1877 M10|[10歳] |ヴィクトリア女王、インド|
| |皇帝に |
1878 M11|[11歳] | |H・スタンリー『暗黒大陸
| | |横断記』
1880 M13|[12歳] |第2次グラッドストン内閣|
| |誕生(近代政治技術の開始|
| |第1次ボーア戦争、トラン|
| |スヴァール共和国反英反乱|
1881 M14|[14歳]実母千枝死去 | |
| | |
1881 M14|[14歳]私立二松学舎に入学し、 | |
| 漢学を学ぶ | |
| | |
1882 M15|[15歳] |エジプトへのイギリス単独|
| |出兵、保護国化 |
1883 M16|[16歳] | |スティーブンソン『宝島』
| | |
1884 M17|[17歳]大学予備門予科入学 | |『オックスフォード大学英
| | |語辞典』第1部出版
1886 M19|[19歳]落第によって心機一転し、|ビルマの植民地化を完了 |スティーブンソン『ジキル
| 以後卒業まで主席を通す | |博士とハイド氏』
| | |
1887 M20|[20歳] | |コナン・ドイル『緋色の研
| | |究』
1888 M21|[21歳]塩原家より夏目家に復籍。| |
| 「夏目金之助」に戻る | |
| | |
1888 M21|[21歳]第一高等中学校予科を卒業|切り裂きジャックが重大ニ|ブラヴァツキー夫人『シー
| 本科第一部(文科)に入学|ュースに |クレット・ドクトリン』
| | |
1889 M22|[22歳]正岡子規を知る。初めて | |
| 漱石の号を用いる | |
| | |
1890 M23|[23歳]帝国大学文科大学英文科に| |フレーザー『金枝篇』
| 入学。文部省貸費生となる| |第1巻出版
| | |
1891 M24|[24歳] |ローデシア英保護領となる|ワイルド『ドリアン・グレ
| | |イの肖像』
1892 M25|[25歳]夏、子規と共に京都、堺に| |ドイル『シャーロック・ホ
| 遊び、高浜虚子を知る | |ームズの冒険』
| | |ワイルド『サロメ』(制作
| | |座で上演)
1893 M26|[26歳] | |W・B・イェイツ
| | |『ケルトの薄明』
1894 M27|[27歳]血痰を出し、初期の肺結核| |ビアズリー挿絵担当「イエ
| と診断された | |ロー・ブック」
| | |マクドナルド『リリス』
| | |ショー『武器と人間』
| | |H・G・ウェルズ『タイム
| | |マシン』『透明人間』
1895 M28|[28歳]愛媛県尋常中学校(松山中| |
| 学)教諭に就任 | |
| | |
1895 M28|[28歳]貴族院書記官長中根重一の| |
| 長女鏡子と婚約を交わす | |
| | |
1896 M29|[29歳]第五高等学校講師に就任し| |
| 熊本に赴く | |
| | |
1897 M30|[30歳] | |ブラム・ストーカー『吸血
| | |鬼ドラキュラ』
| | |H・ジェイムズ『ねじの回
| | |転』
1898 M31|[31歳] |英・伊・仏・エチオピア、|ウェルズ『宇宙戦争』
| |ソマリランド分割 |
1899 M32|[32歳] |第2次ボーア戦争はじまる|
| | |
1900 M33|[33歳]文部省より英国留学を命ぜ|労働代表委員会(のちの労|
| られる。妻子を残して出国|働党)結成 |
| | |
1901 M34|[34歳]留学費の不足、孤独感など| |
| から神経衰弱に陥る | |
| | |
1902 M35|[35歳]強度の神経衰弱に陥り、発|日英同盟調印 |
| 狂の噂が日本に伝わった | |
| | |
1903 M36|[36歳]帰国。小泉八雲の後任とし|パンクハースト夫人、女性|ラッセル『数学の原理』
| て東京帝国大学英文科講師|社会政治連盟(WSPU)結成|
| | |
1904 M37|[37歳]初めて書いた創作『吾輩は|植民地で争っていた英仏和|
| 猫である』が好評を博す |解、英仏協商成立 |
| |ロールス・ロイス1号車が|
| |完成 |
1905 M38|[38歳]『吾輩は猫である』を「ホ| |
| トトギス」に発表。 | |
| | |
1906 M39|[39歳]『坊っちゃん』『草枕』を| |
| 発表 | |
| | |
1907 M40|[40歳]朝日新聞社に入社 |英露協商調印、対独包囲網|ジョゼフ・コンラッド
| 『虞美人草』を連載 |の完成 |『密偵』
| | |
1908 M41|[41歳]『夢十夜』ののち、『三四|ロンドンオリンピック開催|
| 郎』を朝日新聞に連載 | |
| | |
1909 M42|[42歳]『それから』を朝日新聞に|英議会が南アフリカ法を可|
| 連載 |決、南アフリカ連邦が成立|
| | |
1910 M43|[43歳]静岡県修善寺温泉で多量の| |E・M・フォースター『ハ
| 吐血をして人事不省に陥る| |ワーズ・エンド』
| | |ゴールズワーシー『正義』
| | |キップリング『ほうびと妖
| | |精』
1911 M44|[44歳] |ロンドンで婦人参政権のデ|ロレンス『白孔雀』
| |モ行進 |
1912 M45|[45歳] |タイタニック号沈没、1513|
| |人犠牲 |
1914 T03|[47歳]『こころ』を朝日新聞に連|ロシアとオーストリア開戦|サキ『獣と超獣』
| 載 |仏英がオーストリアに宣戦|コンラッド『偶然』
| |Uボート、イギリス巡洋艦|
| |3隻を撃沈 |
| |ガンジー、第1回目の断食|
| |をおこなう |
1915 T04|[48歳]『硝子戸の中』ののち、 |イギリス軍に婦人部隊登場|V・ウルフ『船出』
| 『道草』を朝日新聞に連載|日・仏・英・伊・露の5か|モーム『人間の絆』
| |国が単独不講和宣言に調印|
1916 T05|[49歳]胃潰瘍の再発に倒れる。漱|英・仏・露、アジア・トル|ハックスリ詩集『燃える車輪』
| 石山房で胃潰瘍のため死去|コ分割秘密協定に調印 |ジョイス『若き芸術家の肖像』
| |ロイド・ジョージ挙国一致|ダンセーニ戯曲『宿屋の一夜』
| |内閣成立 |