「ヴァンダの部屋」

昨日の昼、渋谷のイメージフォーラムで「ヴァンダの部屋」という映画を観た。
ポルトガルの鬼才ペドロ・コスタの作品。


リスボンの貧民街に暮らすヴァンダとその妹、母。
家族は野菜の行商で生計を立てているのであるが、
なにぶん相手が同じ貧民街の人々相手なので見入りは少ない。
他にすることも無くほとんどの時間を
ヴァンダと妹は薄汚れた部屋に閉じこもってコカインを吸っている。
近くにはヘロイン中毒の男たちが住む部屋があって
彼らもまた特に何をするでもなく暮らしている。
再開発なのか何なのか貧民街の家々は昼間の間常に取り壊しが行われ、
そこに住む人々は常に立ち退きを迫られている。
しかし彼らには行く宛てもなく、居座り続けている。


特にはっきりとしたストーリーも無く
ただ上記のような光景をひたすら映し出すだけの3時間。
特に役柄は無く、出ている人たちはそれぞれ本人ということなのだろう。
となるとドキュメンタリーですか?ってことになるんだけど
それがまたどうしたわけかそうではない。
かといってもちろんフィクションでもない。
そういうジャンルの分け隔ての以前に存在するはずの映像と音声の群。
ただそれだけ。
だけどそれがとんでもなく濃厚な生命力を持っているがゆえに
ジャンル分けをすっとばしていきなり映画として成立してしまう。


ここでいう「ジャンル分け」というのは
フィクションで、コメディーではなくて刑事ものですか?で、舞台はニューヨーク?
だったら色彩の感覚はこうで、こういう役者を使って、こういう場面が冒頭にあって、
という「決まりごと」が一式ごっそりまとわりついてくるような
事細かに定義された分類法のことを指す。
ある意味便利と言えば便利なのは確か。
観客からすれば映画が見やすく分かりやすくなるし、
優れた監督ならばその中にいても十分優れた作品を生み出すことができる。
いわゆる「文法」ってやつ。


だけどそれを窮屈に感じるのか、
意識的にあるいは無意識的に逸脱して越境して
全く新たな個人的な、独自の文法体系を生み出してしまう監督たちがいる。
時としてそんな揺さぶりをかける映画がこの世に生まれてくる。
どこにも寄って立つものは無く、その作品そのものが新しい道を切り開く。
テオ・アンゲロプロスの「旅芸人の記録」がそうだったのかもしれない。
ゴダールの作品は50年代末から現在にいたるまで常にそうだったのかもしれない。
キアロスタミが西欧世界に発見された時がそうだったのかもしれない。
分かりやすい例では「2001年宇宙の旅」なんかがそうじゃないか?
(僕としてはジョン・カサヴェテスの優れた何本かをそこに付け加えたい)
そういった作品は「観る」とか「鑑賞する」ではなく、「体験する」と言った方がふさわしい。


ペドロ・コスタもそういう類いの監督なのだろう。
そして同様に彼の敬愛するストローブ=ユイレもそうなのだろう。
何かで読んだのであるが、ストローブ=ユイレは自らのことを「映画獣」と称していた。
自分たちは映画獣なのであるから何を撮ったとしても映画となってしまうのだ、と。
ペドロ・コスタはその系譜に連なる。


ヴァンダは通常の「映画」の見方からすれば主人公ということになる。
しかしこの主人公、ヒロインは映画らしいことを何もしない。
街をキャベツやレタスを売って歩くか、薄暗い部屋でコカインを吸ってるか。
時々家の別な部屋で服を片付けたりするぐらい。
それ以外のことはほとんど何も出てこない。
「何かにとりつかれた」というのではなく、呼吸するかのようにコカインを吸い続ける。
激しく咳き込み、悪態をつき、具合が悪いと言ってゲロを吐きながら。
食べる場面は確か出てこなかったし、眠る場面はごくわずか。
ありがちな性描写は一切無し。
拾ってきた無数のライターを1コずつ火がつくか試すとか、
部屋の模様替えのためにどこからか拾ってきたポスターを壁に貼るだとか、
後は話している当事者たちにしか分からないようなことを延々と喋ってるとか。
出てくる場面はただそれだけ。


そしてもちろん、製作者側の意図的なメッセージというものもない。
取り壊される貧民街を背景に貧しきものたちをないがしろにする行政を批判するでもなく、
ドラッグが蔓延し誰にでも手に入る世の中ってやつを糾弾するわけでもなく。
そこにあるのはただただ、映像と音声だけ。光と影、静寂とノイズ。


薄汚れて荒廃した場所を舞台としているのに、
何か高潔なものを見せられているように感じさせる。
もう100年以上前、この世界に初めて映画のカメラというものが生まれた時、
素直に様々な生活の光景を撮影してみた、その感覚に近い。


映画というものはどこまで行ったとしてもどこにも辿り着かない。辿り着けない。
終着駅というものは無く、ただその窓から垣間見える光景を眺めているだけ。
後はその光景をどのように捉える(解釈する、認識する)かの問題だということになる。
それだけのものでしかないのに、映画は常にもがき苦しんでいる。


なんだか怪物めいた作品だった。
そしてある種の奇跡がそこにあった。
映画が映画であることの意味を問い掛けて、1つの絶望的な答えを出しているかのような。
希望のあるなしではなく、絶対的な、純粋な絶望。


映画という表現形式は永遠に呪われ続けることになるのか。