「エレファント」

ガス・ヴァン・サント監督作「エレファント」をシネセゾン渋谷に見に行く。
昨年のカンヌで史上初のパルムドールと監督賞をダブルで受賞。
去年のうちからどうしても見たかった一本。


99年のコロンバイン高校での銃撃事件をモチーフにしている。
となれば思い浮かぶのは昨年日本でも公開されて一躍マイケル・ムーアを話題の人にした
ボウリング・フォー・コロンバイン」なのであるが、
アプローチの仕方としては見事なまでに違う。180度違う。


ボウリング・フォー・コロンバイン」は
「こりゃいったいどういうことだ!?なんでこんなことが起こってんだ!?
 そもそもアメリカって国に問題があるんじゃねーか!?」
マイケル・ムーア自ら巨体を揺らし事件の真相をパワフルに「追求する」というもの。
映画という2時間の中にスタートとゴールがある。
観客に次から次へと情報を与え、どこかしら到達点へと導こうとする。


一方「エレファント」はどこへも連れてってはくれない。
事件の起こった高校での日常風景の1コマ1コマを淡々と垣間見せるだけ。
事件の起こる直前のその場に立ち止まって、耳を澄ませ、
10代の若者たちのたわいのない会話が聞こえてくるだけ。
彼ら/彼女たちが薄暗い廊下を1人で歩いている場面が何度も何度も出てくる。
そして誰かと出会うと高校生なりに
挨拶をして、討論をして、悪口を言って、笑いあって、なぐさめて、キスをして。
ただそれだけ。
その映像と音声がそっと差し出されるだけ。
81分という極端に短い時間であっけなく終わってしまう。


声高に訴えかけるでもなく、寓話に置き換えることもなく、
製作者側の意見や判断というものが何ら加えられてないような
純粋で単純な、素直な瞬間の1つ1つ。
それが不揃いに積み重なっていって、何の前触れもなくあっさりと崩れていく。


「真実」ってものがどこかにあって
映画という手段によってそれを描くことが可能だとしたら、、
そして優れた映画のいくつかがそれを真剣に試みてきたのだとしたら、
「エレファント」はその1つの到達点なのかもしれない。


我々が日々生きていく中で感じ取る「瞬間」というものの一見何気ない連続。
その連鎖に何らかの意味を見出すことは可能なのだろうか?
真実ってやつがその瞬間瞬間においてしか見出せないものであるのなら、
そもそもその連鎖にはどんな意味があるのだろうか?
それを映画という媒体を使って現実化し、
感覚として他の人に共有させることは可能なのだろうか?


どこまでも踏み込んでいけばこういうことになる。
・・・確かにその瞬間には真実というものが存在していた。
しかしそれも結局のところその瞬間が過ぎ去ってしまえば永遠に失われてしまう。
そこにはただ、それぞれの人たちが通り過ぎていった瞬間のその残骸だけが残される。
そしてそれをフィルムに焼き付けたのが映画なのだということ。
このことにどこまで自覚的か。


「エレファント」は冷徹なまでに自覚的であるがゆえに
その断片はどこを切り取っても美しい。

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最近の映画で並び立つものがあるならば、
ナンニ・モレッティ監督の「息子の部屋」ぐらいかな。


1つの事件をきっかけに生み出された両極端な作品、
ボウリング・フォー・コロンバイン」と「エレファント」
どちらを見ても「映画ってまだまだ未来があるんだなあ」と
まずそのことに心を動かされる。
こういう監督を生み出す土壌のあるアメリカはほんと、侮れない。

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迷宮のような作品ではないんで1回見ればその全てがわかるんだけど、
余りにも独特な感触をもった映画なのでもう1度見たくなる。
結末はその映画を初めて見る前からわかっている。
ストーリーなんてないに等しい。
あったところでそれはたいした問題ではない。


素晴らしい映画ってだいたいそういうものだ。

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「悲しい」という感情が生まれてくるそれ以前に、もっとなんと言うか、
根源的な、とてつもないものがそこにある、そんな映画。

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劇中で流れる「エリーゼのために」と「月光」の憂いに満ちた、
輪郭のはっきりとしたメロディ。
そしてそれとは対照的な、不定形な、それでいて澄み切ったノイズ。
事件の起こる学校に常に漂っているざわめき。
美しい映像と絡み合ってその音響が生理的に訴えかけるものは大きい。
先日見た「ヴァンダの部屋」にもそれが言える。


音にやられる。