性的欲望により築かれた文化

性欲とはいったいどういうものなのか?
つまるところこれは結局何なのか?
というか、性欲そのものではなくて、性欲の周りに渦巻いている様々な物事。
これらはいったい何なのか?


生殖活動が本能ではなくなった瞬間、その生き物は猿ではなくてヒトとなった。
俗にこのことを進化という。
性欲にまつわる一切が娯楽となり、売買の対象となった。
(売春が世界最古の職業であるのは有名な話)


秘められたる物事として表舞台から隠されているうちに
うごめく欲望は何世紀も何十世紀もかけて巨大で果てしないものとなり
(例えそれがキリスト教文化圏であろうと、その他の文化圏であろうと同じこと)、
20世紀後半を迎え、様々なメディア・様々な文化的表現と結びつき一気に爆発・解放される。
それ自体が「文化」として位置付けられるようになる。
どうせどこかで手に入るのだからわざわざ隠すものでもなくなり、
でもまあ子供の目からは遠ざけておいた方がいいよね、というものになった。
小さいうちから刺激を与えておくとおかしくなってしまうからね、と。


性的な欲求に対してよりえげつない形式で処理を行うこと、
やり場の無い性的な妄想をさらに濃縮させ更によじ曲げること、
これらが商品としてカネになり、確固たる流通経路が形成され、産業として成り立つということ。
全世界規模で。程度の差はあっても、人類の全歴史を通じて。


人と人との接し方を広範囲にわたって規定し、
時として社会における自らのポジションまでも決定されてしまう。
(直接的・間接的な性的偏りが、ある種の人々の呼称となること)
人は自らの性欲をコントロールすることを通じてこの世界での生き方を学ぶ。
そのコントロールの仕方も、裏では性欲としっかり結びついた、
性欲を「悪魔」的立場として利用した倫理規範であったり、
なんらかの処理がなんらかの利潤に繋がるような経済体系であったりするのだから、
人間ってやつは生き物としては性欲そのものに
社会的存在としては性欲にまつわる一切合財にがんじがらめになっているということになる。


それが「気持ちいい」かどうかが全て。
現時点で直接的な快楽的体験とはならなくても、将来的にそれを約束してくれるかどうか。


人間には他にも欲求・欲望があるはずなのに、
性欲だけが極端に肥大化して他の欲求・欲望をも凌駕する。侵食する。
バランスが崩れてしまっている。
おいしいものを食べて「おいしい」と感じること。
柔らかなベッドで眠っていたら気持ちよかったこと。
集団の中でのし上がっていってカリスマ的な指導者となること。
それはいつのまにか性的な欲望に結びついていたりしないか?
あるいは、性的な欲望をフィルターとした視点からそれぞれの行為を批評していたりしていないか?
セクシャルな雰囲気を感じ取れることでそこに+αの魅力を感じてたりしないか?


その一方で人は時としてそういう性的なものに疲れきって、場合によっては飽きてしまって、
そこから離れようとする。よりシンプルな生活に「戻る」ことを求める。
それだって結局は性的かどうかの二項対立から抜け出せていないということになるのだ。


雑誌であれテレビであれインターネットであれ、にぎやかな部類のものは常に
「あなたの性的欲望を正当化する」「表面化させる」「積極的に肯定する」ことばかり推奨している。
男性的欲望の処理だけを目的とした露骨な雑誌に限らず、
わかりやすいところでは女性の読むファッション雑誌でも定期的に特集が組まれているではないか。


そもそも「異性に好まれる」ことが良しとされ、老若男女が日夜努力しているのって
そのゴールとすべき場所は精神的な愛情なのか気持ちのいいセックスなのか?
その両方なのか、そのどちらでもないのか。
ただ単に他の人がそうしているから自分もそうしているのか?
社会的お約束だからそうしているのか?
だけどその社会ってやつも、繰り返しになるが、
その深い部分には性的なものがべったりと厚い層をなしている。


Big Black というアメリカのバンドのアルバムに「Songs About Fucking」というのがある。
見も蓋も無い。
だけど考えてみると世に流通しているポップミュージックの99%までが
その歌われていることの内容は煎じ詰めれば「Songs About Fucking」となるのではないか。
浜崎あゆみだろうと宇多田ヒカルだろうとモー娘系だろうと。
サザンオールスターズだなんてモロそうじゃないか。


・・・というふうに考えてみるとあらゆるモノゴトがあほらしくなってくる。


性的事象が氾濫しているこの現代社会はいいことなのかどうなのか。