旅の思い出

ロッコ・ドバイから帰ってきてもう1ヶ月になる。早いものだ。
なんだか急速に過去の出来事になりつつある。
もしかしたら全て夢だったんじゃないか。そんなふうにも思う。
東京に戻ってくると何事もなかったかのように仕事の日々が続いた。
単調で無味乾燥で同じような毎日を繰り返した。
そもそもこの1ヶ月がどんなふうだったのかがまず思い出せない。
1日が過ぎ去る。そのたびごとにその日を構成していた断片が砂のように崩れていく。
その向こうにあったはずの旅の記憶も少しずつ少しずつ砂の中に埋もれていく。


細部はもう思い出せなくなりつつある。
「モロッコの食べ物ってどんななんですか?」
「レストランに行くといつもモロッコ風サラダってのが出てきてね」
「へー。それってどんなんですか?」
「えーとねえ。赤カブやトマトやニンジンが多かった」
「生ですか?」
「いや、・・・。なんかで和えられていた。でも、えーと、どんなだったっけ?」

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家に帰ってきて、机に向かう。
ロッコを思い出させるよすがとなるものは
volvic のペットボトルに詰めてきたサハラ砂漠の砂だけ。
お金がなかったし使いたくなかったってのもあったんだけど、
状況的に買わざるを得なかったラクダの革のベルト以外には
今回の旅では特に自分のためのお土産って買わなかった。
これといって欲しいものもなかった。
これはモロッコが波長に合わなかったとかそういうことではなくて。


小さなときにはどこか観光地に出かけると必ずお土産屋で何がしか買ったものだった。
キーホルダーを集めていた。今でも青森に帰ればどこかにあるはずだ。
十和田湖や函館や新島やいろんな場所のキーホルダー。
もうこの年になるとそういうのいらなくなってきた。
記念の品とか。邪魔になるだけ。
(額とか文鎮とか、なんかでもらったら今の僕は即捨ててしまうのではないか)


記憶が、思い出があればそれでいい。
心のどっか奥の方からふとした弾みにひょっこり出てきて懐かしく思う。
そういうものだけがあればいい。
日々の暮らしは身軽な方がいい。
その場所で一緒に過ごした人と久々に会うことがあって
そのときの話ができて楽しい時間が過ごせるなら、
それ以上のものってもうありえないのではないか。
(そう、思い出を分かち合う人がいないからこそ、一人旅はつらいものなのだ)


強いて言うなら、旅先で買った、きれいな写真が印刷された絵葉書が何枚かあればいい。
そうだ、僕は絵葉書をあちこちで買った。
僕の中でお土産という意識はなかった。
思い出をたどっていくためのインデックスとして必要に駆られて買い求めた、
そんな意味合いが強い。


今、封筒の中から取り出して眺めてみる。
砂漠はこんなだっただろうか。
広場に佇む人々はこんなだっただろうか。
何枚かは僕が実際に訪れ、その場の空気を肌で感じた場所が映っている。
あのときの匂いを、光の加減を、囁くような声の調子を、
何よりもまず触覚に伝わってくるような喧騒を、
僕は覚えているはずだ。
その土地をまだ訪れたことのない人が
本屋ならどこでも売っているようなありふれたガイドブックを眺めている。
僕の中の理性的な部分は今そんな感じだ。
その一方で僕の中の別な部分では、小さな何かがその場所と呼応している。
その無数の点を結び合わせていくと僕の中でモロッコの地図が出来上がる。
なのにそれは日々わずかずつその結びつきを失っていく。
ばらばらになってほどけていって、どこにいるべきなのかその場所を見失って。


だけどそれでいいのだとも思う。
思い出というものに対して身軽でないといつか息苦しくなる。
どこにも行けなくなってしまう。


だからこそ人々は常に「ここではないどこか」を探し求め、
また新しいどこかへと旅に出ようとする。
旅に出ることがなければ、日常生活を抜け出すことがなければ、
人々は記憶の砂の中に埋もれ、やがて朽ち果てる。
僕はそう思っている。