個性と呼ばれるもの

顧客のオフィスにて朝からプロダクトの導入作業。その立会いをする。
社員の方々が仕事をしていない休みの日でないと作業できないので土曜に行うことになる。
仕事してる人のいないガラーンとしたオフィスってのは奇妙な雰囲気がある。
自分とこの会社でもそうだけど。


それにしても思うのは
会社の中ってそれぞれ違うもんだなあということ。
まあ、当たり前と言っちゃえば当たり前な話
社会人になって6年、これまでいろんなオフィスを訪れたけどどこも雰囲気が全然違う。
シンプルで物そのものがあんまりないオフィス、雑然としていてひどく人間くさいオフィス。
机と椅子、電話とPC。ファイルキャビネット、ミーティングスペース、コーヒーサーバー。
構成する要素は概念的には全く一緒のものなのに、どうしてここまで違うのか。


経営のトップが持つ人間的雰囲気や好みでこうなるのか、
それとも20人の会社なら20人の、2000人なら2000人の、
社員たちの有機的な相互連関により形作られていくのか。
仕事の内容、扱ってる商品・サービス、向き合ってるお客さんの性質、
いろんなもんがあるんだろうな。


生まれたばかりの会社にはまだ混沌とした空気の流れしかなくて、
やがてそこにいた人たちの意見の総和として社風とか企業文化とかが醸成されていく。
後から入ってきた人たちはそのイメージの中に取り込まれていく。
(こういう「醸成」プロセスを断片的に切り取って
 いろんな角度から眺めることができたらきっと面白いだろう)


どの職場であれ、求められることは「いかにして効率よく仕事のできる環境を提供できるか」
よほど進んだ、余裕のある企業でない限り、個性なんてものが正面きって取り込まれることはない。
なのにいくらでもその会社の個性というものが滲み出てきてしまう。

    • -

会社の中に限らず、個々の家の中・部屋の中もさらに千差万別。
人間の外見が異なるように住まいの中も大きく異なる。
人括りにすると個性と呼ばれるものがそこでは溢れかえっている。


個性的な顔つきの人は個性的な部屋に住んでいるような感じがする。
個の主張の強い人の部屋は置かれている物の多さ少なさに関係なく、一癖ありそうだ。
逆に言うと印象に乏しい人は無味乾燥な部屋が思い浮かぶ。
同じように置かれている物の多さ少なさに関係なく地味な部屋から出てきて、
時間が来るとそこへと戻っていく。


例えば、アンデスの山中やニューギニアの奥地、アフリカの砂漠の周辺に何千年と住んでいる部族。
西洋に端を発する文明と比較して
彼らは所有しているものが少なく、一般的に「貧しい」とされる。
住居はどれもこれも似通っていて、
身に着ける衣服・装飾品もまた色や模様以外にこれといって区別がつかない。
ただ単に見慣れてないだけなのかもしれないが、
なんにせよ僕は同じぐらい彼らの顔つきもまた区別ができない。
テレビや本の中で見る限りでは
背の高さや低さ、大雑把な年齢、性別といったものでかろうじて
何か特徴のようなものがつかめるだけだ。
つまり、没個性的。


これは僕らが「個性」と呼んでいるものが西洋的裕福さの産物だからなのか。
そういう観点・尺度でないと計れないものなのか。
そうなったとき、僕らが「個性」と呼んでいるものは実はたいしたものじゃないってことになる。
相対的なあやふやなものであって、絶対的なものではない。
時代と共に移り変わるものだとしてもある種のレールが敷かれているように思えるのは
実は錯角だったりする。

    • -

そもそも、
人というものは他者との同一よりも差異を求めるものなのだろうか。
それとも差異よりも同一を求めるものなのだろうか。


本能的にどちらなのだろう?
個々の時代の、個々の地域の、個々の文明において、どちらとなるのだろう?