Morning Bell

彼女の生まれた村では丘の上に小さな塔が建てられていた。
その天辺には鐘が吊り下げられていて朝になるとゆっくりと打ち鳴らされた。
草原を、田園を、鐘の音が広がっていく。村全体を包み込む。
一仕事終えた農夫たちが家の前で立ち止まり、いつもの方角へと見上げる。
家の中で食事の用意をしていた女たちもその手を止める。
食卓の上では焼き上げられたばかりのパンがふんわりとした湯気をたてている。
木苺で作られたジャムの入った小さな壷の中に銀色のスプーンが差し込まれている。
子供たちが外に走り出て歌にならない歌を歌った。
緑色と小麦色に覆い尽くされたその世界では
時間とはいつも変わりなく、穏やかに流れていくものだった。


まだ小さかった頃の彼女は年上の姉妹たちに連れられて
山を超えた向こうに広がる海を見に行ったことが何度かあった。
貝殻を拾っては波の音を聞いた。
貝殻によって音が変わるので、「これはどこどこの海」と名前を付けていった。
海の反対側から流れ着いたという青や緑色をした何かの破片を太陽にかざした。
昼になるとバスケットから果物を取り出して食べた。
潮の匂いは彼女にとって不思議なものだった。
今も彼女は何かの拍子に、あの日のことを思い出す。


失われてしまった世界のことを彼女は思い出す。
失われてしまった人々のことを彼女は思い出す。
記憶の中にしか無くなってしまった無数の出来事、交わした会話、
彼女だけの宝箱に入っていた様々な色と形をした玩具。
彼女は今都会とされる場所の中で機械に埋め込まれて暮らしている。
あの日の朝と同じように、その時間が来れば都市全体に鐘が鳴り渡る。
耳を塞いでも彼女には聞こえてくる。
その顔を覆う両手が錆付いてしまっている。
永遠を与えられた生命に閉じ込められて、
彼女は幼かった頃の記憶の中へと絶えず戻っていこうとする。