僕の音楽遍歴 その11(大学1年)

93年春、上京。
ここから先「音楽好き」が本格化する。
今に至るまでそれはずっと続いている。
いろんなジャンルのいろんなCDに出会って、いろんなライブを見に行って。
高校卒業までに持っていたCDは100枚ぐらい。それでも十分多い。
それが大学3年で500枚となって、
社会人になってからさらにペースが上がって今では5000枚を恐らく越している。
数えることができなくなった。
高校時代は頑なに邦楽を聞かなかったのに
レピッシュの旧譜を買い直したのをきっかけにまた聴くようになり、
Miles DavisJaco Pastorius を入口にジャズやフュージョンを聴き始め、
古着屋でかかっていてかっこよかったのを理由にスカ・レゲエにも触手を伸ばし、
(今から10年前、どこの古着屋に入ってもスカのかかっていた印象がある)
その一方でテクノやハウスもオーバーグラウンド化。
それと並行するように所謂クラブカルチャーも生まれる。
上京直後の93年に印象的な社会現象としては
クラブとJリーグの異常な盛り上がりだったように記憶している。
その頃日本の最先端の音楽は「渋谷系」だった。
バブルがはじけて、庶民が庶民なりの洗練や気分の高揚を求めた時代だった。


何を聞いたか、何を買ったかを挙げていったらキリがないのでここでは焦点を絞る。
身の回りで「誰と出会ったか」である。
大学に進学してようやく、
メタル・ハードロック以外に洋楽の話ができる人たちがポツポツと現われる。
乾いた地面に水が与えられたかのように僕は感じた。
今回はさらに焦点を絞って、サイノウさんについて書きたいと思う。
僕の人生を変えた3人を選ぶとまず間違いなくこの人が入る。良くも悪くも。


93年の4月2日。青森発上野着の寝台特急に乗って上京。
そのまま大学の寮へと向かう。
入寮手続きを済ませると寮委員に北201号室だと言われる。
小汚い廊下に小汚い階段、辿り着いた先は廊下の一番外れの小汚い部屋。
いろんなものの残骸が散乱し、
壁にはマジックペンで大きく「宣戦布告」だの「玉砕」だの書かれている。
(それぞれ、告白とその失敗という意味)
余りの汚さに愕然とする。
そこに現われたのが1年先輩のサイノウさん。「おお、来たか」ってなノリで。
故郷では医者の息子だというサイノウさんは
周りの小汚さにはまるで何の縁もないかのようにピカッと光り輝くおしゃれな服装だった。
「雑巾ないですか」と僕は開口一番言ったらしい。
サイノウさんが取りに行く。箒かなんかと一緒に戻ってくる。
その瞬間僕は鞄の中から Rockin'on を取り出していた。
それを見たサイノウさんが「おまえ、ロック好きか?」と質問する。
この時のことは今でも話題に上るが、
「大好きですよ」と答えた僕の口調は怒っているように聞こえたのだという。
「くだらないこと聞いてんじゃねえよ」って感じで。
もちろん僕は怒ってなどいない。
東北というか青森の、特にそれまで無口だった人間が上京してきたときよくあることだが、
当人は普通の受け答えをしているつもりでも
ぶっきらぼうで早口な話し方が「怒ってる」ように周りの人たちには聞こえる。
サイノウさんはそのときの僕に「ロック好きとしての高いプライドを感じた」のだという。
僕としては「ハハハ、好きですよー」ぐらいの爽やかな回答のつもりだったんだけど。
僕が結婚式を行うことになり、披露宴でサイノウさんがスピーチをすることになったら
この時のことは必ず語られるんだろうな。
その日の夜の「入寮コンパ」での滝ゲロと合わせて。


「なんとかっこいい先輩なのだろう」と驚いた僕は
それから先何年もサイノウさんを師と仰ぎ、行動指針の1つとして東京で暮らしていくことになる。
高校時代映画部にいたと言うとただそれだけで
サイノウさんの所属していた映画サークル「映創会」へと連れて行かれ、
2年後にはいつのまにか僕が部長になっている。
社会人になった今も作品を作り続けている。大袈裟に言うならば僕はこの人に人生を狂わされた。
でもまあそれでよかったのだと僕思っている。
今でも頭が上がらない。


それはさておき、サイノウさんもロック好きということで当時はそういう話ばかりしていた。
サイノウさんは何よりも David Bowie が好きで、アルバムをCDで全部持っていた。
ただそれだけでも「この人はすごいなあ」と僕は信服していた。
机の前の壁にはいろんな写真や切抜きがコラージュされていたが
その中に若き日の David Bowie のピンナップがあった。
それと同じぐらい熱心に U2 を聞いていて、Zooropa ツアーで来日するというときには
電話予約開始の朝は4人で寮の玄関脇の公衆電話を占領して電話をかけまくった。
掛けては切り掛けては切りを延々30分ぐらい繰り返してようやく僕がつながったとき、
サイノウさんは「でかした!オカムラ!!」と叫んだ。
僕は鼻高々だった。
そんなわけで U2 来日公演を見に行くことになったわけであるが、
その前の晩はサイノウさんに「おまえら予習するぞ」と言われて「魂の叫び」のビデオを見せられた。


東京ドームで見るボノもエッジも豆粒みたいなものでしかなかった。
そのツアーでは悪魔を気取ったメイクをしたボノがステージで
その国の重要人物に電話をかけるコーナーってのがあって、
アメリカではもちろん大統領に電話を掛け続けた。
日本ではじゃあ誰に?となったとき、残念なことにボノがかけたのは「時報」だった。
(次の日の夜は当時横綱だった曙にかけたらしい)
実際の U2 よりも「魂の叫び」の方がかっこよくて、
それをきっかけに僕も U2 を聞くようになった。
中学のときに青森市の市民図書館の中にCD貸し出しコーナーがあって、
その中に当時全世界を席巻した名作「The Joshua Tree」が置いてあるのを見て、
「ああ、このジャケット知ってる」と思い、借りて聞いてみた。
起伏がない音楽だなあ(!)と感じてすぐにもやめてしまった。。。
大学生になって始めて、U2がすごいグループだということがピンと来るようになった。


その当時は寝ても覚めても麻雀をひたすら打っていたわけであるが、
そのときのBGMはテレビをつけっぱなしか、僕かサイノウさんがCDを持ち寄っていた。
The Jon Spencer Blues Explosion であるとか Pavement を DisKUnion で見つけてきた僕が
その日の夜の麻雀でCDラジカセに掛けると、サイノウさんが
「これ、えらくかっこいい音だな」みたいなことを言う。
そして僕が聞きかじりの知識を披露する。
僕は18歳か19歳だった。
そういうことを中心に世の中が回っていた。