サーカス、2045年

僕の生まれる前から、この国は海の向こうの遠い遠い国と戦争をしていた。
もう長いこと続いている。
僕の小さい頃、いとこのお兄さんがある朝突然強制的に徴兵されたことを覚えている。
テントの中に軍服を着た大人たちが3人か4人現れ、
(子供心に感じた恐怖心やその後の悪夢から、もっと大勢いるように思えた)
白い馬を相手に曲芸の練習をしていたお兄さんに向かって金切り声で何かを叫んだ。檄を飛ばすというやつだ。
お兄さんは馬から下りると気をつけの姿勢をして、彼等に向かって敬礼をした。
そして無言のまま遠巻きにして見守っていたみんなに対して、深々とお辞儀をした。
テントの右側に向かって、左側に向かって、最後に団長(僕の父親だ)のいる真ん中に向かって。
その10分後にはお兄さんはトランク1つに国民服という格好で現れ、テントの外に消えた。
それが最後だった。その1ヵ月後にはあっさりと死んでしまった。
連隊の写真が1枚届いただけだった。前から3番目の列の左端に小さく写っているだけだった。
僕はかわいがってもらっていたのに、その最後の日には僕に向かって手を振ることさえなかった。
僕だけじゃなく、誰に対しても何の別れの挨拶も交わすことなく、死んでしまった。
トレーラーの中で荷物を整えていたたった10分の短い間に、
おじさんとおばさん、そしていとこのお姉さんと話すのが精一杯だったのだろうと今は思う。
(3人ともこの日のことは固く口を結んで何も語ろうとしない。
 その後お兄さんのことを話題にすることすら、自らに禁じたようだった)


今ではお兄さんの乗っていた白い馬もかなり老いぼれた。
ライオンも象もみんなくたびれ果てた。
キャラバンがこの国の各地を回って広場に大きなテントを建てて
にぎやかな音楽をスピーカーで流しても、
(父の若い頃にはこの音楽を演奏する楽団員たちまで、サーカスは抱えていたのだという)
集まる人たちは少なくなっていた。
昼間の仕事を終えると夜は工場で物資の生産に従事する、
誰も彼もがそんな状態では見に来る時間なんてありやしない。そしてもちろんお金もない。
乏しい余暇の時間はみんな、集合住宅の中に閉じこもっている。
父はどんな手口を使って国家の助成金を得ているのだろうといつも不思議に思う。


ますます厳しくなる戦況を反映して、僕らのショーもどんどん慎ましいものになっていった。
今となっては空中ブランコに乗れるのはいとこのお姉さんだけだ。
遠い昔の映像を見ると、空中ブランコは男女ペアになって行われるものだった。
勢いをつけてブランコから手を離すと女性は宙を舞い、
タイミングよくブランコの軌道を合わせた男性がその両手をしっかりと捕まえる。
サーカスのクライマックスだ。
ダダダダダと派手に叩かれるマーチングロールがこの瞬間にはふっと消えて辺りには静けさが広まる。
観客たちの固唾を飲む音が大きく聞こえてくるかのようだ。
時間は静止してしまったかのようにゆっくりと流れる。
ブランコ乗りの2人が両手を触れ合って、そして男性が女性を引き上げると、
その瞬間からまたブラスの入った音楽がにぎやかにテントの中で再開される。
場内は拍手の渦。ブランコにぶら下がった2人にも、そして観客たちの間にも、笑顔が広がる・・・。
僕らのサーカスも3年前までは男女ペアになって空中ブランコが演じられていたが、
どちらかと言うとテープの音楽に合わせて踊るようなものであって、
20世紀のいつかの映像のように「アクロバット」として演じられるものではなかった。
そしてそういった「見世物」に対して向けられる笑顔は弱々しく、拍手の数もまばらだった。


僕の専門は綱渡りだった。
まだよちよち歩きの頃から、自分の背丈よりも大きなボールに乗っかることを覚え(覚えさせられ)、
いつのまにか僕はテントの端と端を繋ぐロープの上を、
長い棒でバランスを取りながら歩くようになっていた。
空中ブランコの前、象の曲芸の後。僕の出番だ。
ひらひらとした軽い服を着せられ、派手な音楽(誰かが選んだ僕のテーマ曲)が流れると
僕は無意識のうちに体が動いて、大きな身振りで観客たちに向かってお辞儀をしている。
スポットライトを浴びて目がくらむんだけど、僕は目をつぶってもこの綱渡りを演じることができる。
途中でよろっとよろけて、大人たちの「ああ」というため息や
子供たちの「危ない!」という声を引き出すということも含めて。
僕の笑顔はいつだって張り付いている。
僕は学校に行かなかった。暇を持て余した団員たちから読み書きを教えられ、
夜になると父が算数/数学を曲芸よりも熱心に叩き込んだ。
学校に行ってないのは僕だけではなくて、どうせ誰も行ってなかった。
「ミシュウガクジドウが20%を超えました」
僕が小さい頃にテレビを見ていたら、ニュースでそんなことを言っていた。
なぜか強い印象に残っていて覚えている。今ではこの数字はどれぐらいになるのだろう?
工場で働くのに学問はいらない。
戦場で人を殺すのにも、そして自分が死んでいくときにも、学問はいらない。
僕は17歳。僕にできることは綱渡りだけだ。
そして僕の目の前にはいつだって観客の姿はない。
僕はこの静かな世界で、1人きり、白いロープの上を歩いている。


戦争はもうすぐ終わるのだという噂を僕は聞いた。
勝ちもしないし負けもしない。どこか別の国が、もっと大きな国が「調停」に入るのだという。
そして僕らの国も僕らの敵とされてきたA国も、大国Bの支配下に入る。
ついこの間、父のもとにスーツを来た役人が現れ、
B国のために首都で行われるパレードのために象や馬とともに参加してほしいという要請がなされた。
副団長として僕もその場には居合わせていた。
父は困惑した表情を浮かべ、弱気な口調で
「だけどその日にはN市で公演が決まっているし・・・、がっかりする子供たちが・・・」と言葉を濁す。
役人はそっけなく「だったら援助を打ち切りますよ」と言い放つ。
そのとき、「いいですよ、やりましょう」という言葉が不意に僕の口を突いて出た。
2人して同じような驚いた顔つきをして、僕のことを眺めた。2人して長い間、黙って。
パレードがしたいわけではない。B国に興味があるのでもない。ましてA国に恨みがあるのでもない。
そういう物事には関わりたくない。
僕には僕の、か細い1本のロープだけが目の前に伸びていればよかった。
だけど、自分でもなぜかわからないけど、僕は「やります」と答えていた。


僕はその日、首都の最も広い道路を象の背に乗って行進することになっている。
道の両側には大勢の集まっていて、僕は彼らに向かって絶えず手を振っている。
ジャグリングをする3人のピエロがその後に続く。
僕の前を歩くのはいとこのお姉さんだ。白いドレスを着ている。お姉さんもまた笑っている。
観客たちがみな笑っている。熱狂的な雰囲気に全てが包まれている。
行進が続く。マーチングバンドがにぎやかな演奏を繰り広げる。
普段はテレビの中でしか見ない有名な女優たちもオープンカーに乗って声援を浴びている。
張りぼてのマンガの主人公が出てきたりもするだろう。
僕はそういう光景を思い描いた。
その先頭に立って、僕はたった1日だけ、スターになれる。


だから、僕の手元に召集令状が届いた時、何かの間違いだと思った。
それは1通のそっけない通知書だった。
何月何日にどこそこに出頭すべし。パレードの3日前の日付だった。
何度も読み直した。宛先が間違ってないか何度も確認した。
そこに書かれているのは紛れもなく僕の名前だった。
「ねえ、僕はこの国のためにパレードに出ることになってるんだよ?」
「戦争は終わるはずじゃなかったの?」
思わず叫びそうになった。この僕を取り囲むあらゆるものを破壊したくなった。
その日僕は夜の間ずっと1人で泣き通し、夜が明けると荷物をまとめた。

    • -

そして僕は今、C国へと密航する船に乗っている。
どうしてそんなことをしたのかわからない。
C国に行ったところで何があるわけでもない。
この星のどの国よりもひどい状態にある。
政治も経済も混乱していて、産業と呼べるものは何もなく、
生まれたばかりの子供たちが次々に餓死している。戦争そのものが主要産業だ。
そんなところに何しに行くのか?
・・・たった1つ確かなことがある。
C国は先日の国際会議にてB国の外相に向かって国交断絶を申し入れ、
明日にも僕のいた国に対して宣戦布告をすることになっていた。