over there

注意深く観察すると、独り言を呟いている人は世の中にけっこう存在する。
条件反射的に言葉が口をついて出て、
それが意味のある文章として連なった、というのではなくて
誰かに常に話しかけられていて、答えているというような。
あるいはその誰かを追い払うためにののしっているというような。
そういう人たちは今僕らが他の人たちと共有している「現実」の世界ではなく、
どこか別の次元に広がっている何かを目にしているのですぐわかる。
この世界を直視していてはその世界が見えなくなるので、その目は虚ろだ。


僕も時々独り言を言いそうになる。
だけどそれをいつもぐっと堪えている。常に意識している。
「ああ、あれやらなきゃ」「どうしてかなあ」
みたいなごく当たり前のことですら、言わないように気をつけている。
日常的に言い出すと、文章がどんどん長くなっていって、
口に出さずには行動できなくなりそうだから。
それって僕が僕をコントロールするみたいでなんとなく怖い。
僕がもう1人の自分を動かすのか、それとももう1人の自分が僕を動かすのか。
どちらにせよ。


そういうのが嵩じてくると実際に向こう側の世界が見えるようになったり、
「そこにはいない」人が目の前に現われたりするのかもしれない。
そして話しかけられたり、囁かれたり、毎晩ひっきりなしに議論をふっかけられる。
そしてそれは人ではなくて、天使や動物や
500万年先の未来から来た高次の精神生命体かもしれない。


つまり、独り言という行為が、
向こう側に橋をかける手続きのように思えるということだ。


何も言ってはならない。誰に対しても、心を閉ざすことだ。
いつ誰が聞き耳をたてていて、
おせっかいにも橋を渡そうとしてくるかわかったもんじゃない。
もちろん視線も、合わせてはならない。


現実の世界は今にも変容して
か弱き人々に対して襲い掛かろうと待ち構えている。
その怖さを、狡猾さを、あなたも知っているべきだ。
身を守るということを、常に考えているべきだ。
身を守る術を、常に追い求めるべきだ。


そうだ。信じられるのはテレビの中だけ。
こちらは受身でいるだけの一方的な情報のやり取りだから、信用できる。
そしてそれは1秒ごとに映像も音声も移り変わっていって消えてなくなる。
後に残らない。5分後には忘れてしまう。
例えば図書館の本を開いたときに
活字たちが小さな虫となって襲い掛かってくることもない。

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という出だしの短編を書こうと思った。
都会に住む若者の孤独。


人と話さなくなる、人と話せなくなる。その悪循環。
ドアを開けた向こうに広がっていた向こう側の世界。


書いたら僕もまた引き込まれるような気がして、書くのをやめた。
だけどこの先を書きたくてたまらない。言葉として綴りたい。
向こう側に広がってるものがなんなのか、垣間見てみたい。

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僕がキーボードで打ち込んだ文字の1つ1つが小さな虫となり、
モニターを這い出て机の上を歩く。
腕から上って行って振り払っても振り払っても
行進はどこまでも途切れなく続く。這い回る感触が全身を覆う。
そしてそいつらは目を閉じ口をふさいでも耳の穴や鼻の穴から入り込む。
僕の頭の中へと戻っていく。
僕の頭の中を支配する。
そいつらは僕の両手を乗っ取り、キーを打たせる。
新しい虫たちが生まれる。


虫たちの王はネットワークを侵略し、
0と1の符号の全てを仲間にしてその王国の領土を広げる。

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神様は今夜、この星に存在する全ての人に1人ずつ天使を遣わすことに決めました。


この地球上の10月5日時点での全ての人々、
65億7205万1471人、全ての方が対象です。
今日生まれた幼子にも、明日の朝死にゆく人々にも、分け隔てなく。


明日の朝生まれる幼子のことについては、神様は何も語られませんでした。


そして神様は、いなくなりました。


いなくなりました。
いなくなりました。


いなくなりました。