笑うという行為

周りの人たちを笑わせるにはどうしたらいいのだろう?
笑ってもらえるにはどうしたらいいだろう?


おどけて滑稽なフリをすればいいのか。
自分の地位を貶めて、おろかな行為で、笑いを誘う。
これが一番簡単な方法なのだろうか?歴史的に。ピエロはこの系譜につながる。


他人の揚げ足を取る。
その場に集まった人たちの中で、立場の低いものを槍玉にあげる。
犠牲になってもらう。


銃を手に、「笑え!」と強要する。


知的に、思いもかけないもの同士を結びつけて、ユニークな発想を語る。


なんらかの前向きな感情を共有して、自然と笑みが伝わるようにする。
(それを手っ取り早く行うために、みんなで酒を飲む)


・・・こんなふうに挙げていってみると、
「笑う」という行為は非常に不可思議なものだ。
人はなぜ笑うのか?となぜ笑いを必要とするのか?と考えてみたくなる。
でも、恐らく、答えは出てこない。


手がかりの1つ:
笑いにもいくつか種類がある。
楽しげな笑い、寂しげな笑い、アイロニーとしての笑い。


寂しげなものであってもよいから、笑ってもらった方がよいのか?


寂しい人を笑わせるにはどうしたらいいのだろう?
孤独な人を笑わせるにはどうしたらいいのだろう?

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なんだか最近、人を笑わせるということが難しくなってきた。ように思う。
「笑う」ではなく、「笑ってくれてる」状況の方が多くなったのではないか・・・


「この人の言うことだから笑わなくてはならない」というその場の雰囲気。
無意識のうちに身構えて、ここがタイミングだな、と感じた瞬間に笑う。
内容で笑うのではなく、条件反射で笑う。
世の中を観察していると、実は大半がそうなのではないかと、20代になってから気付いた。


明石家さんまが出てきただけで、スタジオの観客席やテレビの前の視聴者が笑う。
手を振り上げただけで笑う。さんまが笑うと、みんな笑う。
恐らく、日本国民の大半は、
客先の笑い声とさんまの立ち振る舞いと声のトーンだけで
どこで笑うべきか条件付けされている。
全然意味を成さない日本語を喋っていたとしても、あの身振りと声の抑揚で
「ああ、ここが笑うところなのだな」とポイントがわかる。


そういう受動的な笑いがこの国には蔓延しているのではないか・・・
それでもいいから笑った方がよいのか?


愛想笑いであるとか、お客さんの言ったことに対してとりあえず笑うとか。
無愛想よりはいいってのは確かだが、じゃあ100%いいものかっていうとそうでもない。
なんだかとても難しい。


「笑う」という行為のもつ1側面が「意志の疎通」「儀礼」にあるのならば、
受動的な笑いにも一理ある。
しかし日々の暮らしの中で出会う笑いがそういうのばかりだとしたら、
いつか見も心も疲れ切ってしまう。


日々新鮮な状況に遭遇し、新鮮な笑いを双方が得る。
それが理想なんだけどそうもいかないから、条件付けされた笑いで代用する。
他の国がどうなのかはわからないけど、日本にはそれがきっと多いのだと思う。
たまたま目が合っただけで向こうが笑いかけてくる国ではないのだから。


日本という国は笑いに乏しい。
お笑い芸人がもてはやされているのは、
日々の暮らしに本当の、新鮮な笑いが生まれにくいからだ。
だから毎年毎年新しい芸人が現われては消費されつくして、飽きられて、消えていく。


じゃあ、そもそもまずはオマエが笑うべきだし、
笑わせるべきじゃないかってことになるんだけど、
それが冒頭の部分に戻っていく。
考えれば考えるほど、なんだかよくわからなくなっていく。
考えることをやめてしまって
素直に笑う・笑わせるには、日々の暮らしは単調で冷酷だ。


困ったもんだ。