ツアーでペルー その24(4月24日)

マチュピチュ遺跡


集合して、Mさんの解説を聞く。
僕はマチュピチュの草の上に寝っ転がった。
青い空が視界いっぱいに広がる。
白い雲がゆっくりゆっくりと横切っていく。


僕らが今いる山の名前がそもそも「マチュピチュ」であって、
ケチュア語で「老いた山」を意味する。
それがそのまま遺跡の名前となった。
マチュピチュを写した写真を見るとき、遺跡の背後に写っている細長い山。
これは「ワイナピチュ」同じく、「若い山」を意味する。
「ワイナピチュ」は1日に登ることのできる人数が限られていて、400人まで。
また登ってよい時間も7時から13時まで。パスポートの提出が求められる。
普通の日帰りツアーで列車に乗って来ているならばまず無理で、
前日からふもとの町アグアス・カリエンテスに泊まってる必要がありそうだ。
その後ツアーの誰と話しても「ワイナピチュ登りたい」と口を揃えて言う。
9日間という駆け足のツアーの限界を知る。
JTB で10日間のツアーだと、アグアス・カリエンテスに泊まるんだよなー。
ワイナピチュ登らないとしても、早朝のマチュピチュが見れただろうし。
ここに大きな差が出たね。


なお、昨年ワイナピチュに登っていて足を滑らせて落下して2名死亡。
そのうち1人は日本人。


ワイナピチュの方角に向いて立ったとき、
背後に聳え立つ山のてっぺんに旗が立っている。インカ帝国の旗。
インカ道がもちろん通っていて、山の中腹にインカ橋というのがある。
丸太を3本渡したというただそれだけのものなんだけど、
怪しい人物が通りがかったらその丸太を外せばいいわけで。賢い。


その隣の山に「太陽の門」がある。マチュピチュの入口。
インカ帝国時代は見張り小屋の役割を果たした。
昨年ここの岩が崩れ、スペイン人の男性にぶつかる。
ペルーでは「(征服したスペイン人への)インカの祟り」だと噂されたという。
森の間を上下に、また横にインカ道が通っているのが見える。


マチュピチュを発見したのは1911年7月24日、
アメリカ人の探検家ハイラム・ビンガムということになっている。
19世紀半ばにはフランスとイタリアの探検隊が既に発見していたという説もあるが、
真偽のほどははっきりしない。
Mさんに言わせるとこのハイラム・ビンガムはとんでもない泥棒で、
マチュピチュに埋まっていた黄金を見つけて掘り出すと同行していた学生たちとともに
その黄金をアメリカまで持ち帰っている。


マチュピチュはもともと何もない岩山を切崩して造られた。
人工石と自然石とを組み合わせて階段状の敷地を形作っていく。
土ははるか下界からリャマの背に積んで運ばれてきた。
(「世界ふしぎ発見」の問題にもなったそうだ。
 マチュピチュ周辺では手に入らなかったので取り寄せた材料があるがそれは何か?)
土は元々ここにはなくて、ここマチュピチュの地面の下を掘り起こせば
出てくるのは石ころなのだという。
広さとしては東京ドーム2個分。5平方キロ。
向かって右側が工業地域、左側が宗教地域。
第9代皇帝パチャクティ皇帝の時代、1440年に建造が着手され、
1533年スペイン人に征服された際に時の皇帝が逃れるために火を放ったとされる。
結局都市は未完成のままで、石切り場にて切り出された石がそのまま残っている。
都市としてのマチュピチュの世帯数は216であったことが部屋の数から割り出されている。
当時の人口は800〜1000人。


太陽の門の方からワイナピチュを横に見ると、人の顔に見える。皇帝の顔。
また、ワイナピチュの頂上からマチュピチュを眺めると翼を広げたコンドルの形をしている。
ワイナピチュの中腹にはピューマの姿が描かれている。


誰かが質問をして、ガイドのMさんが答えた。
ペルーを訪れる旅行者としては相変わらずアメリカ人が一番多いが、
それでも最近は減って来ている。ヨーロッパからの旅行者も減少傾向にある。
逆に増えているのがロシア、中国、韓国から。
日本はアメリカに次いで多い。


高地の段々畑から、少し下りて見張り小屋へ。
太陽の門が見え、また都市の建物もワイナピチュも全て360度視界に収まる。
ここで撮る写真がマチュピチュの風景としては定番。


生贄の石という祭壇のような形の岩が草地の上に置かれている。
リャマをつなぐための穴が空いている。
マチュピチュでは災害が起きると生贄を捧げた。
1946年、少女のミイラが発見されている。


門をくぐって、都市の中へ。まずは宗教地域。
小道を歩いて部屋に入って、また次の部屋へ。
階段を下りて、歩いて、の繰り返し。
(中を歩いているとき全然メモを取らなかった、取り忘れたので
 書くことが少なくてうまくまとめられない・・・)


ハイラム・ビンガムが金の盗掘を行った場所に差し掛かる。
ここにも生贄の石があったように思う。いや、エネルギーの集まる石だったか。


太陽の神殿。冬至6/21、1年のうちこの日だけ日が差し込むようになっている。
日時計の役割をなしていたとされる。
壁は横にアーチを描くような形で丸みを帯びている。
神殿の下部は霊堂となっている。魂がよみがえる場所。
ミイラが安置されていた。


各部屋の中をよく見ると水平線がチョークで引かれ、
アルファベットと数字で識別用の番号が書かれている。修復用のサイン。
マチュピチュは痛みが激しく、常に修復作業が行われている。
この日歩いていても、目立たぬようにそれとなく
現地の人たちが黙々と作業に従事していた。


果樹が集められた一角。
世界3大フルーツの1つ「チリモイヤ」が実をつけている。
(他の2つはマンゴスチン、ドリアン)
また、別な木にはグラナディーヤ(パッションフルーツ)がなっている。


32角の岩。クスコ市街の壁にあった12角の岩を上回る精密さ。
この岩のある部屋は壁に立方体のくぼみがいくつも残されている。
このくぼみの中で声を出すと反響する。
かつては生贄の控え室とされていたが、
近年は楽器の調律のために使用されたという説が有力。


広場を隔てて反対側、技術者の居住区に入る。
科学技術を教える学校としての役割を担った部屋。
水がめのような形の石が2個置かれている。
表面を浅く平たく彫られていてそこに水を満たす。
水鏡として利用され、天体観測(太陽と月の位置)が行われた。
壁には水筒を吊るすための引っ掛ける出っ張りが並んでいる。
ここの部屋では、織物の織り方、石の割り方といった技術も伝授された。


大きな石を組んだ下に這いつくばらないと入れないようなスペースがある。
怠けた人が入れられた牢屋。
拷問に使われたとこれまでされてきたが、
チチャ(紫トウモロコシの酒)を作るための部屋という説が有力。


他に見たもの。(書いていったらキリがない)
・水汲み場
・1950年のチリ地震で石組みが崩れた箇所
南十字星の形をした石。正確に東西南北を指し示している。
・子供用の滑り台
・コンドルの神殿
・インティワタナ(日時計


居住区は3段に別れ、一番上が貴族のためのもの。
水もまた上から流れるようになっている。
下に行くに従って、庶民用など、身分が低くなっていく。
インカ帝国の水道技術の高さは特筆すべき。いまだ分からないことが多い。
段々畑はサイフォンの原理で水が引かれていた。


アルパカが遺跡内の小道を歩いていた。
壁の上に珍しく、ピスカチャ(ウサギ)を見かけた。


基本的にここは崖の上。右を見ても左を見ても絶景。
観光用に手すりがあるわけでもなく、
道をわざわざ踏み外すってこともないんだろうけど、
もしそんなことがあったら山のふもとへとまっさかさま。
高所恐怖症の人にはお薦めしない。


歩いているうちに、向こうの山が分厚い灰色の雲で覆われだす。
ガイドのMさんは一時間後には雨じゃないか、と予想する。
見事に外れてアグアス・カリエンテスに戻っても降り出すことなし。ついていた。